金光町の歴史



遙照山から金光町をのぞむ

 金光町の歴史は古く、占見新田と八重の間の丘陵地帯で旧石器と思われる石器が発見されていることから、先史時代に人が住み着いていたことがわかります。また吉備の国の一部として早くから開けたため、古墳や塚等の文化財も多数確認されています。
 町の中心部は昔は海で、波止端、津奥、沖、津、釜人といった海辺にちなんだ地名が現在まで残っています。
 千数百年前の平安時代には占見郷と言われていました。
 300年ほど前の江戸時代初期には、上竹村、占見村、佐方村に分かれており、町の中央部は海で、船が往来していたと言われています。その後、占見新田、大谷新田、八重新田が開かれて、現在の地形となりました。


明治時代以前の金光町は、岡山藩領(地頭下村、占見村、下竹村、上竹村)、鴨方藩領(八重村、占見新田村)、浅尾藩領(須恵村、大谷村)、三須藩領(佐方村)に分かれていました。廃藩置県により、明治4年これらすべての村は浅口郡に編入され、深津県の所轄となり、明治8年には岡山県に合併されました。
 明治22年6月、町村制施行時に、佐方村、須恵村、大谷村の3か村が合併して吉備村。地頭下村、占見村、占見新田村の3か村が合併して占見村。上竹村、下竹村、八重村の3か村が合併し竹村となり、それぞれもとの村名を大字として残すことになりました。
 明治38年3月、吉備村、占見村、竹村の3村が合併して三和村となり、大正12年10月町制を敷くこととなり、金光町と改め現在に至っています。