龍の響き  −龍笛のこと−




 生前の尾原楽長を知る方に、吹かれていた龍笛の音のことを聞いた時、その音色は「龍が啼くような音」であったと言われていたのを思い出す。古今東西を問わず、龍の鳴き声を聞いた人間はたぶんいないだろうが、その言からイメージする音色は、およそ竹の笛が持つやさしく素朴な音からはほど遠い、重く迫力のあるものであったのだろう。
 他の楽器よりもはるかに音域が広く、多彩な装飾的技法があるにもかかわらず、どちらかと言えば地味に聞こえる龍笛である。しかし、その音は、主旋律を歌う派手な篳篥や先導する笙の音を引き立たせ、音の広がりを生むなど、典楽をはじめとする邦楽独特の味わいを出すのに欠かせない楽器なのだ。
 古代の人々は、この楽器で「空(くう)」を表したのだという。「天の光」を表す笙と「地の声」を表す篳篥。その間にあって龍笛は、「天」と「地」二つの象徴を近づけ取り結ぶ働きをするのだ。その空間は、まさに龍が駆ける場である。「天」に媚びず「地」に染まらず、二つの楽器の間を自由に駆け回るのだろう。
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 ある楽人の話である。龍笛の音が好きなこの楽人は、一人で毎日欠かさず稽古を重ねた。当然上手くなる。よく鳴るし、技術的にもどんどん上達していく。成果が感じられるほどに、稽古にもますます力が入る。
 そして、ある時久しぶりに他の楽人と合奏したところ、自分の音が違っていることに気づいたという。音程が高いのだ。独り稽古故に、音程を意識することもなく、いつしか自分の一番吹きやすいところで稽古を重ねていたのだ。自分の吹きやすい音が、正しい音程とは限らないと思い知ったその楽人は、以来音程に細心の注意を払い、苦労して正規の音程が出せるようになったという。
 音程が変えられない笙や音程を探すことから始まる篳篥と違って、龍笛は、鳴った音が正規の音程に近いように作られている。しかし、吹きやすい音が正しい音程ではないのだ。龍笛の稽古は、音色にばかり力が入りがちであるが、音程も作る必要のある楽器である。
 人が生きることも、同じなのだろう。自分にとっての正しさは、正しい「正しさ」ではないということを肝に銘じておきたい。常に人と関わり合う中で、そぎ落とされ、あるいは積まれながら、徐々に作られていくのだろう。
 龍笛も稽古、人生も稽古。稽古に稽古を重ねて、いつかは龍の響きのような人間性と音色とをものにしたい。


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