余韻の味わい  −箏のこと−
平成10年7月 典楽会だより


箏(こと)の誕生は、古代中国、秦の時代にさかのぼるらしい。秦王朝を確立した始皇帝は、瑟(ひつ)という二十五絃の楽器の宝物をもっていた。それを二人の娘が欲しがり、互いに譲らないため、始皇帝は、その瑟を二つに割り、それぞれの娘に与えたという。事の信憑性はともかく、なるほど箏という字は「竹遍」に「争う」となっているし、実際に十二絃と十三絃の箏が今日まで残っているらしい。その中の十三絃の箏が日本に伝わり、そして典楽に使用されることになった。
「この十三絃の箏はお姉さんのもらったほうなのかしら?それとも妹のほうかしら?もしかすると妹の方がかわいがられて・・・・」などと、古代のロマンへ想いを馳せながら、箏を眺め弾いてみるのも悪くない。

箏は、基本的にはピアノと同じように、一度弾いた音の大きさを途中で修正することができない楽器である。あとは余韻にまかせるしかない。これは、箏という楽器が抱えるひとつの限界性を示すものではあるが、このことがかえって魅力ともなっている。なぜなら、こうした限界を持つ故に、箏は絃のつま弾きの強弱や、弾いた後に絃を押さえ音程を変化させるなど、さまざまな奏法が生み出され、また余韻さえもその表現方法として実にうまく取り込んでいると思えるからだ。つまり、弱点があることにより工夫が生まれ、かえってより表情豊かな味わいとなっている。そういうように思えるのである。
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人間には、それぞれ大なり小なり得手不得手がある。「得手」はいいことであるが、それでは「不得手」はダメなことであるかというと、どうもそうではない。
「不得手」はひとつの壁である。克服できる壁もあるができない壁も当然あるはずだ。ただ、その壁を克服できないといってあきらめてしまえば、弱点以外の何ものでもない。壁をよく知り、カバーする手段を講ずることができるならば、「不得手」は、弱点としての壁から別の「得手」へと変貌を遂げることになるのではないか。人間は神さまから、得手不得手とともに、それを自在に活用する手だても頂いているのである。
人それぞれに備わった得手不得手。すべて神さまから頂いたものであり、生きていくために必要なものである。そのひとつひとつを「得手」だから大切に、「不得手」だからあきらめて、というのではなく、すべて内に取り込み、箏の響きのように賜物(たまもの)として生かし切りたい。

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