人の声  -篳篥のこと-




 篳篥は、いうまでもなく旋律の主役である。子供のおもちゃのような小さな外見からは似つかわしくない、大きな音がする。この楽器の調子如何によって、合奏全体の良否が決まると言っても過言ではないだろう。
 そして、ただ大きいだけではない。独特の哀調のある音色は、昔から、たとえば海賊に襲われた船の上で、その乗組員が吹く篳篥の音に、海賊達はそれぞれの故郷を想い涙を流し、略奪を止めて帰っていった、などという逸話を多く生んでいる。名人による篳篥が奏でる音色は、それほどまでに心を開かせ、魂を揺すぶる力をもっているのだ。
 ただし、上手でない人の音色はと言えば、まったく違うものとなる。それこそ、心を開かせるのではなく苛立たせてしまうこともあるだろう。篳篥は、演奏する人によって与える印象が劇的に変化する楽器なのである。
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 古代の人たちは、篳篥の音色で「人の声」を表したという。「人の声」とは、ただ単に人間の声を表すのではなく、地上に生きるすべての生命の声あるいは生命としての存在そのものを表すのであろう。
 人の生き方は、多様である。さまざまな境遇に生まれ、違った教育を受け、そして経験を重ね、人間はみな別々の人生を織りなしていく。それらは、一定の尺度では計ることができない密度と広がりを併せ持った独自の世界であり、故に、人生はそれぞれに貴くかけがえがない。
 しかし、さまざまな人が生きる世の中では、時には耳を塞ぎたくなるような声や怒り出したくなるような声が聞こえることもある。自分の声もまた、今どのような声なのか、折に触れて聞き取らねばならないだろう。こうした「人の声」を、良いとか悪いとか区別するのではなく、そのすべてを祈りで包み込み行動していくという、お道の信仰に生きる姿勢を考えさせられる。
 そのような思いを、篳篥の大きな音の中にわずかでものせることができたならば、音色は必ず変わるだろう。それはたとえダミ声であろうと、その人にしか出すことのできないかけがえのない音色なのだ。そんな篳篥を鳴り響かせてみたい。


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