記念講演 |
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楽即信−金光教典楽の世界−(1)
三矢田 光(金光教島之内教会)
はじめに
典楽会結成50年、おめでとうございます。営々と楽のご用が積み重ねられての今日でありますこと、まことにありがたいことと思わせていただくのです。 この晴れのお席にお話をというご命を頂き、身にあまる大役に、いったいどう果たさせていただけばよいのかと思いながら、準備を始めました。ところが始めてみてびっくりしました。16年前に典楽の歴史を論文にまとめた時には、「この出来事には、いったいどんな意味があったのだろうか」と考えても考えても、どうもしっかりした見方ができなかったことが、いくつもあったのです。それが今回、するするとほどけるように事柄が繋がりあい、「そうか、こういうことだったのか」と腑に落ちるということが、いくつも出てきたのですね。あるいは、マイナスとばかり思っていたことが実はプラスだと気づかされたり、ある事柄を見るについて、「私はこういう角度から見たい」という願いも、ずいぶん出てまいりました。そういう内容を、この16年のあいだに、知らず知らず頂いてきていたのですね。 そういう驚きと喜びを感じながら、お話を用意させていただくことができました。これは今としての私の見方であり、不充分な点や、特殊な角度からの見解も含んでおりましょうが、精一杯のところをお話しさせていただきますので、どうかお聞き取りいただきたいと思います。 今日は、「典楽とは何か」という大きなテーマに向けて、 1、典楽はどのような性格をもって誕生したか。 2、典楽の意義はどのように受け止められたか。また、どのように取り組まれていったか。 3、中正楽創出の意味は何か。 4、典楽会の歴史的な位置と役割はどのようなものか。 この4点を話させていただきます。幸いに皆様は、典楽そのものは熟知しておられ、歴史についても予備知識をお持ちです。また、今回典楽の歴史を綴った記念冊子が編纂されましたので、出来事についてはそちらに譲り、このお話では、それをどういう意味として見るのか、ということのみを申し上げます。 本論に入ります前に、一つ心にとめておきたいことがあります。それは、典楽は日本音楽として生まれ営まれてきた、ということです。 試しに皆さん、オペラ歌手が「天地」を歌っている、と想像してみてください。いかがですか。それはそれでおもしろいけれど典楽というのとは少し違うなあ、という感じがしませんか。なぜそう感じるかというと、典楽の声というものはこういうものだという感覚が私たちの中にあるからです。典楽の背景としての東洋的な、そして日本的な音への美的感性の問題ですね。三味線のサワリは、日本で工夫されました。ビーンという音をわざわざ発生させることで音の味わいが増す、と考えたのですね。声でも、サビや渋みのある声が好まれます。もののあわれとか幽玄とかいう言葉を思い出しても、日本的な音の好みというものが思われるわけです。 それは、自然への感性とも関わっていると思います。吉川英史氏は、日本人は風の音や虫の声を音楽として味わってきた、と指摘しています。「日本人は、虫や鳥の声を左脳で聞くけれど、欧米人は右脳で雑音として聞く。また、日本人は、洋楽器の音は右脳で、邦楽器の音は左脳で聞く」という研究結果もあるのだそうです。音質感覚だけではありません。様式でも大きなちがいがあります。単音や凝縮された簡潔な表現を好み、機能和声とはちがう曖昧模糊とした音の重ねあわせを好みます。 しかしおそらく最大の特色は、音楽とは何かという根本的な問題についての感覚です。それが何かと名指しできるほどには、私の勉強が進んでいないのですが、かつての典楽の修行観や教え方・学び方は日本的な伝統を視野に入れなければ理解できない、ということは言えます。ですから、「日本的な音楽のあり方とはどのようなものか」という問いを心にとめながら典楽史を見ていきたいと思うのです。 1、典楽の誕生 ●三つの発端● 典楽は、いつ生まれたのか。こう聞かれたら何と答えればよいでしょうか。一つの答えとしては、明治35年の典楽部設置ですね。しかしこれは制度的にはそうなのですが、その前に実態があったから制度化されているわけです。内容から言えば、答えはこうなります。「典楽は、吉備楽が本教儀式に取り入れられた時、生まれた」。以前、楽人の方から、「尾原音人という専門家を呼び込んで典楽を立ち上げたので、たまたま吉備楽になったのではないか」と言われたことがありますが、違うのですね。吉備楽でなければならなかったのです。 典楽の淵源を尋ねていくと3つの出来事に行き当たります。1つ目は、明治21年10月のことです。教祖大祭で吉備楽による奏楽が行われ、佐藤範雄先生が、これに非常に感銘を受けられたのです。「明治21年金光教祖大祭の折岡山教会山本正三尾原音人氏等吉備楽を奏し当時いたく感じ爾来斯楽尊重の念止まざりしも」と書いておられます。 2つ目は、鳩谷金造少年、後の佐藤金造先生ですね。佐藤金造先生が尋常小学校4年の終わり頃といいますから、明治21年の終わりか明治22年のはじめ頃になりますが、佐藤範雄先生から、将来金光教の教師になるためにはぜひ必要であると言われて、吉備楽の稽古をはじめられました。主に箏と歌をされたようで、40曲くらい習得され、黒住教の祭典や催し物、あるいは師範学校主催の演奏会などで演奏されました。 3つ目は、明治23年4月のことです。ご本部の大祭の際に、佐藤範雄先生が小林岩松先生に、「なんとこの道にも楽があればよいのう。がくはがくでも吉備楽の楽ぞ。黒住教などやっている」と言われました。小林先生は吉備楽をはじめられ、本部や近隣で、明治26年までご家族ともども奏楽のご用をされるのですね。 この3つの出来事から、2つのことがわかります。1つは、佐藤範雄先生がキーパーソンである、ということです。もう1つは、吉備楽でなければならなかった、ということです。明治22年10月のご本部の大祭では、中野米次郎先生が京都から楽人さんを派遣されて、太鼓まで持ち込んで雅楽による奏楽が行われています。そのすぐあとの大祭の時に、「がくはがくでも吉備楽の楽ぞ」と言われているのですからね。いよいよ吉備楽でなければならなかったのです。 そのほかのことともいろいろ考え合わせてわからせられたのは、明治21年に宿老が後の尾原楽長の吉備楽を耳にして、これだ、と思われた思い、「爾来斯楽尊重の念止まざりし」と語っておられるその思いというものが、典楽の出発点になっているということなのです。 ですから、典楽はどのような性格を持って生まれたかを考えるには、明治21年時点での吉備楽とはどういう音楽であったか、また宿老の吉備楽への注目のしかたはどのようであったかを取り上げねばならないのです。 ●吉備楽の性格● 明治10年代の吉備楽というのは、じつに鮮やかな輝きを放っています。それはいろいろな文脈で確認することができるのですが、しかし、では当時の人々の耳に吉備楽がどう響いたかとなると、私たちが直接理解することを容易に許してはくれません。 東郷平八郎元帥の国葬が外国で報道された時、哀悼の意を表するために「かっぽれ」が流されたという話が、吉川英史氏の著作に出てきます。日本人にとっては愉快でにぎやかで軽妙な曲なのですが、欧米の人たちには物悲しくて神妙に聞こえるというのです。 ロバート・モーリーという学者さんが、西アフリカのロマ族という西欧文化を知らない人たちに、この曲は世界中の誰が聞いてもやさしさを感じるだろう、この曲は快活さを感じるだろう、というような曲を用意して聞いてもらったところ、予想もしなかったてんでんばらばらの反応が返ってきたということです。 音楽を聴いてどう感じるかという基盤は文化と体験が作るのです。今日のわれわれと明治の吉備楽はそうとうに隔たっていると考えねばなりません。ですから、資料に聞くのです。まず当時の感想に素直に耳を傾け、行間や背景を読み込みながら、当時の吉備楽の調べを感じ取っていくのです。 明治11年6月23日の『開知新聞』に吉備楽の記事が出ています。吉備楽創始者・岸本芳秀が東京で活躍していた時です。「楽雅にして淫ならず正にして俗ならず如何にも時情に適する新曲」であり、記者自身が深く心を動かされたこと、「淫乱猥褻の風を矯正する」力を持った音楽であることを記しています。 あるいは、同じ年の10月11日の『東京日々新聞』には、吉備楽が皇太后陛下と皇后陛下の台覧に供されたことを報じ、「其の奏する譜曲は極めて閑雅清麗にして宛かも碧潭に紅楓(こうふう)を浮べ微雲の残月を籠るが如し甚愛すべきの韻あり甚欽ぶべきの調あり」と評しています。 絶賛ですね。当時のマスコミの邦楽に対する批評は概して辛口です。こんな評価のされ方は珍しいと言ってよいでしょう。こうした報道や感想を見渡しながら、吉備楽はなぜ当時高く評価されたのかを考えてみます。 まず、雅楽に基盤を置いている、という点があげられます。田辺尚雄氏は、雅楽と吉備楽は太陽と月との関係にあると述べています。吉備楽は雅楽の精神という光に照らされながら輝いているというのですね。私は以前、吉備楽は雅楽と俗楽の中間にある、と考えていましたが、最近になって、田辺氏の指摘が非常に重要であることに気づきました。確かに吉備楽は、雅楽の様式と精神を基盤にしているのです。だから当時の日本人がイメージした理想の古楽を喚起させたのですね。吉備楽に社会教化の力があるという評価は、そこからきていると思われます。 次に、簡素化と創造性です。音楽的な身軽さと豊かさと言ってもよいでしょう。大編成によって真価を発揮する雅楽に対して、吉備楽は、歌と筝とを主軸にします。静掻と早掻を繋ぐ旋律や経過音の処理は、ほどのよさを保ちながら鮮烈な魅力を持っています。歌詞が自由な点も大きいですね。意味がよくわかりますし、感情を表現する新たな曲を作り続けられるのです。 それから当時の奏者が名手ぞろいであったことがあげられます。芳秀自身、優れた才能を持ち、精進を重ねた音楽家でした。また、彼の協力者たちも、備前における雅楽の伝統を背景として、高い能力を持った音楽家たちだったのです。 さらに、吉備楽が脚光を浴びるには、時代の要請もあったと思います。明治11年6月17日の浜離宮での演奏では、聞き手に、太政大臣・三条実美、外務卿・岩倉具視ら政府高官らの名が見えます。岩倉は欧米を回る使節団の代表として、文化の重要性を痛感した一人です。政府高官らのあいだには、「諸外国に誇れる、日本独自の音楽文化が必要である」という問題意識があり、これが高崎五六が高崎正風に諮って芳秀らを上京させた背景にあったと考えられます。思想の混乱も見られる中で、明治という時代の精神と文化を確立していくという課題もありました。政府高官や国学者らが次々と吉備楽に歌詞を寄せたのも、単に個人として吉備楽が気に入ったからという以上の意味があったと思われるのです。 やがて、芳秀と井上八千代(片山春子)との出会いにより吉備舞は家庭舞としての完成を迎えます。また、明治16年に黒住教の祭典音楽に採用されるにあたり祭典用の楽曲が調えられたということですが、明治20年頃には、後の『吉備楽歌琴笙譜』中巻の「祭事之部」に見られるような楽曲群が成立していたと思われます。 ●神人の和楽● では、その吉備楽を、宿老はどのような観点から本教に導入しようと考えたのでしょうか。後に宿老は、「吉備楽は吉備国人岸本芳秀翁の創むる所にして神事楽を旨とし一面又家庭楽たり優美典雅真に神人をして和楽せしむるものなり」と述べています。ごく簡潔な表現ですが、ここには吉備楽の本質と宿老の注目のあり方が凝縮して示されていると思います。 「神事楽を旨とし一面又家庭楽たり」。まさにそのとおりですね。芳秀によって生まれた吉備楽の世界は、あけはなしの大らかさを持っており、根幹の部分に天地自然への畏敬と感謝が込められていると感じるのです。神道の祭典用に作られた楽曲があるとかいう意味ではなく、そういう広やかな意味において、吉備楽全体が神様の音楽だと思うのです。だから吉備楽は復古神道とも相性がよかったのですが、吉備楽本来の精神世界は、天皇制イデオロギーに染まらない、素朴で素直な神道世界であるように思えます。そしてそのまま家庭音楽ともなるような通有性と娯楽性を兼ね備えていたのですね。 そして宿老は、吉備楽が「神人の和楽」をもたらす音楽である、と述べています。これは儀式の場でとか金光教の中ではという話ではないのですね。信心している人もいない人も含めて、すべての人にとって吉備楽は、ということで言われているのです。 実際宿老は、吉備楽を広く社会に打ち出していきます。吉備楽の持つ敬神と和楽の精神が世の人の心の狂いを直していく、という願いがあったのではないか。同じ時期の宿老のいろいろな動きともあわせて、そのように見るのがよいであろうというのが、今としての私の見方なのです。 以上のような願いと性格をもって、吉備楽は本教典楽へと取り入れられていきました。古楽の理想を体現しつつ、自由な創造性を持ち、強い音楽的感動を与える音楽であるというのが、当時における吉備楽でした。そして、典楽は、儀式音楽であると同時に社会教化の音楽として生まれたのです。 また、「典楽」という言葉は、「祭典の音楽」あるいは「楽を典(つかさど)る」と読めば儀式音楽を意味しますし、「楽に典(のっと)る」と読めば音楽によって心身を調えることを意味します。「典楽」という言葉自体にこうした二面性が表現されているのですね。 (つづく)
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