何事も勉強でしょう

金光教西中国教務センター所長
山 本 正 三




 私の祖父が道の御用に立たせていただく動機となったのは、親教会にあたる芸備教会の初代お広前先生から「お楽の御用を頂いてはどうか」とのおすすめの言葉がきっかけである。当時、二十代の青年であった祖父は、教会の楽人として御用を頂くうちに、典楽の御用そのものよりも、お広前先生のみ教えを頂く方が楽しみとなった。そして、次第に親からの信心がこのままではすまないとの思いになり、ついにはお道の御用に身命を捧げようという決意をするに至ったという。
 その話を何度となく聞かされてきたが、今ごろになってふとあることを気付かされた。
 私の長女が昨年から吉備舞の御用を頂いているが、その長女の練習する姿を見ながら、「何とか御用にたって欲しい。さらにはこの御用を通して信心を進めて欲しい」と祈っている。そうした自分と同様、いやそれ以上の思いで、祖父に対してお広前先生は願いをかけておられたに違いない、との思いがうかんできた。
 それまでは、何かきっかけを与えてくださったということのみ捉えていたが、その中にお広前先生の深い祈りと願いを今さらの様に感じさせられた。

 またもう一つ、長女がその練習をなかなか気乗りしない姿をみながら、ふと自身の体験を思い出した。
 私が学生の時のことであった。ある御用を頼まれたが、元来手先の不器用な私にとってその御用は苦痛に思えた。御用にあたる日が近づくにつれて、その思いは増し、ついには断ろうとまでの思いとなって、当日を迎えた。
 その御用の場に向かう前に、本部広前に参拝し、思い切ってそのことを四代金光様にお届けをした。私の話をじっと聞かれた金光様は、「あのなあ何事も勉強でしょう。算数でも、1+1=2というのは、勉強してはじめてわかるんでしょう。最初から誰にも教えてもらわずにできたんじゃないでしょう。出来ん、出来んと言うよりも、何事も勉強だと思ってさせていただけばええんじゃ。算数でも、御用でも勉強させてもらいながら進めばえんじゃ」と噛んで含めるようにお話をしてくださった。
 その時の御用は、おかげを頂き思った以上に楽しくさせていただくことができた。そして、私にとって、その時のお言葉は、その後のどのような御用を頂くうえでも、自身の心を支えてくださっている。
 今、私は長女を叱ってしまいそうな思いを押さえつつ、「何事も勉強でしょう」の言葉を味わっている。