金光さま!!
![]() こうした行為が、いつ頃からお道の中に根付いたのかは定かではない。近藤藤守師の伝えに「まさかの折には、天地金乃神、と言うにはおよばない。金光大神、助けてくれと言えば、すぐにおかげを授けてやる」とあるから、おそらく教祖ご存命の頃からのことではないだろうか。 ○
大祭の日。今まさに始まろうとする祭員参向の奏楽を始めるにあたって、楽人はおそらくこの言葉を心の中で唱えていることだろう。その一言の中に、奏楽御用に当たらせていただくお礼、大祭が麗しく仕えられることのお願い、あるいは、稽古が不十分であったことのお詫びや大祭を迎えたことの喜びなど、さまざまな思いが込められている。
「金光さま!」は、さまざまに揺れ動き、複雑に絡み合う人の思いや願いを、一言で神様に届ける魔法の言葉なのかもしれない。 一日に、いったいどれだけの人が、どのくらい「金光さま!」と唱えているのだろうか。何かを落としそうになって「金光さま!」運転の前に「金光さま!」怒りを抑えようとしながら「金光さま!」こみ上げてくる喜びと共に「金光さま!」。日本中の唱えられた「金光さま!」をカウントしてみると、とんでもない数字になるのではと思ってしまう。 ○
さて、そうやって唱えられた「金光さま!」は、神様に届けられた後どうなるのだろうか。消えてしまうのだろうか。いや、きっとその言葉は、込められた思いとともに重なりつながり合って、たとえば、落ち葉や朽ち木が積み重なりやがて豊穣な腐葉土をなすように、どんな願いでも受け入れおかげにせずにはおれない、そんな塊になっているにちがいない。 そんなありがたい言葉を、我々は知っている。そして、難儀な人、困っている人、救われたいと願っている人がたくさんいることも知っている。その人たちに「金光さま!」を神の言葉として声高に伝えるのではなく、その人の抱え持つ難儀や不安に寄り添い、支え、励ます同伴者でありたい。 「金光さま!」の言葉と共に。 |