冬隣(ふゆどなり)
2023/12/31

  朝、目覚める。戸外にて深呼吸をひとつ。清々しい空気の中にほのかな金木犀の香気が混じり始めるともう秋だ。
 今年の夏は長く厳しかった。そして迎えた秋は夏とは対照的に、その余韻に浸る間もなくごく足早に過ぎ去ろうとしている感がある。春もそうだったが、短い春秋と長い冬夏。まるで「四季」が「二季」になってしまうのではという漠然とした不安も、やがて地球温暖化の影響はここにも現れているようだなどという月並みな結論に導かれてしまう。
 それでも秋は来て、やがて冬へと装いを変えていくのだろう。少し歪にはなったが、四季は天地の道理の通り必ず巡って来るのである。
  
 5月から龍笛を始めた若者が稽古に勤しんでいる。初めて持った竜笛。プラ管ではあるが、本人にとっては見たこともない雅楽器という珍しさもあり、興味津々の程で触ったり吹いてみたり−。
 でも音はならない。「スースー」という吹き込んだ息が風のように聞こえてくる。笛なのに鳴らない。これは、龍笛を稽古しようとする決して少なくはない者たちが最初にぶつかる壁であろう。 
 一方で、何の苦労もなく最初から澄んだ音を鳴らす者もいる。何事もなかったように最初の壁を突破してしまうのだ。たぶん本人には最初の壁という意識すらない。つくづく神様は不公平ではないかとか、何をお考えになっているのかとか、自問することになる。
 さて、件の若者は、下唇の位置や、上唇の被せ方、息を笛の歌口に吹き込む角度や強さなどを微妙に変えたりして試行錯誤に余念がない。突然、音らしきものが出た。が、長く続かないし、また風の音に戻ったりする。「もっと息を弱く」とか「上唇をもう少し被せて」とか、適切?な指示を出すがなかなか反応が鈍い。それでも数回後の稽古からは、続かないながらひ弱な音が出せるようになった。最初から比べれば格段の進歩である。なんとか壁は乗り越えられそうだ。
 だが、彼は気づいているだろうか。稽古当初の、日に日に上達が見て取れた頃とは違い、いくら稽古しても一見何も変化が無い、穏やかではあるが実に緩慢で単調な日々の繰り返しが、やがてはやってくることに。

 いくらやっても何も変わらない、上達への道筋が見えないという時期があることは、典楽の稽古に限らずどの芸道にも普通にあることだ。実際には成長は止まっていないにもかかわらず、見えず、感じられないために陥る局面だろう。これも壁と言うのだろうが、稽古し始めの頃の壁とは少し性質が違う。初心者の壁は、確かに存在するが、もう一方の壁は、自らが勝手に線引きして周囲に巡らしたものなのかもしれない。
 人は、成長する生き物である。それができていると感じたり、周囲から褒められたりされている内はモチベーションも高いが、成長が感じられず昨日と何も変わらない今日明日であることに人は落胆し、徐々にやりがいが失われていく。

 くりかへしくりかへしつづけゆく稽古おのづから生むか楽しんでする稽古(碧水歌集「土」第十六集)

 習い事は、スポーツを含め繰り返し繰り返し反復することで某かのものを身体に覚え込ませていく。それらは一様に変化がなく退屈な営みでもあるが、それでも上手になるために、辛抱して続けていくのだろう。しかし、前述したように成長が止んでいるのではない。何らかのものが、この身に染みわたっていく時のような穏やかで静かな時間も、また必要なのだと気づかされる。単調な稽古を続けていくことの意義もそこにあるのだろう。四代金光様は、そのような単調で辛抱して続ける稽古を「楽しんでする稽古」と仰せられ、そのような心持ちを「おのづから生」み出すことが必要だと説かれている。
 どのような道にあっても、上達に至る稽古の過程は紆余曲折であり、好調に様々なものが芽吹く時もあれば、冬の最中のように何もかもが凍てつき時が止まっているかのような時期もある。たとえ、単調な日々であろうと、よくよく細かく見つめてみれば、変化はいくつも探せるものである。そのような目を養いつつ、常に「楽しんでする稽古」でありたい。

 冬隣、晩秋の季語である。その背後にはもう冬の兆しが見え始めている。今年の冬も長く寒いのだろうか、などと考えると、この先暗い停滞期に入っていくようで億劫になる。しかし、四季は天地の道理の通り必ず巡って、冬の隣にはしっかりと春が座っているのだろう。それぞれに、少しばかりの変化と成長を土産に抱えて。