記念曲制作ものがたり
その40 記念式開催

いよいよ記念式当日となった。あいにくの雨模様である。
典楽会結成50年記念式は、祭典と式典と祝宴の3部で構成され、記念曲は式典中に披露される事になっている。
当日はY氏をはじめ教団の主立った人が来られるので、下手なことはできない。なんとかうまくいくようにと祈るばかりである。

祭典は、2005年2月19日14時から、本部修徳殿において4人の祭員と16人の奏楽員、3人の舞人により行われた。Y氏は、時間までにはお越し頂き、前でM氏とともに座ってもらう。
通常の式次第に加え、神前、霊前共に吉備舞が奉納されるのが、いかにも典楽会の祭典らしい。
 滞りなく、祭典は仕えられた。本来ならばここで外に移動しての記念写真撮影となるのだが、雨のため断念し、休憩の後式典に移る。
会長あいさつ、教務総長祝辞の後、記念曲作曲者Y氏が紹介され、あいさつを依頼した。
壇上に立ったY氏からどのような話が聞けるか、興味深かった。一つ一つ言葉を選びながら落ち着いて話されるY氏の言葉に、メールのやりとりをしながら、書かれた文字からY氏の思いを出来るだけ多くくみ取ろうとしてきた日々が思い起こされてきた。しんどい日々ではあったが、今思えば結構充実していたのだろう。
 そんな感傷を思い浮かべながら聞いていると、途中で音声が切れた。急に拡声に乗らなくなったのだ。Y氏は、そそくさと話を切り上げてしまった。
 あとで調べると、楽人さんの1人の背中の位置にアンプのコンセントがあり、何かのはずみで触ってはずれたようだ。Y氏の話はもう少し聞きたかった。残念。

 いよいよ、演奏開始である。
 ただ、全曲を演奏するだけでは、何か物足りないのでは、と言う思いから、1章ごとにナレーションを付けるようにしていた。全くの新しいものは時間的に無理だったので、企画書に付けていた、章毎の説明文をアレンジし、「ですます調」に変えたものである。
 ナレーターは楽人のNさん。普段はフニャフニャしたしゃべり方だが、ここぞという時には、滑舌のいいしっかりしたしゃべり方をする女性である。
 指揮は金光学園のS氏、コーラスも金光混声合唱団のメンバーが収録時と同様に集まっていただいた。
 1章からナレーションの後演奏というパターンで進行する。3章まで無事終えることができた。演奏がどうであったか、正直わからなかったのだが、演奏後の拍手は暫く鳴りやまなかった。よかったのだろうか。とりあえずは、ぼろが出ず無事終えることができた。一安心である。

その後、M氏による記念講演を終え、3部の祝宴に向かうためY氏、M氏と私の3人で移動中に、Y氏に感想を聞いてみた。Y氏は、やはり自分の思っていたイメージとは少し違っていたようである。それは上手下手の子とではなく、たぶん典楽器とコーラスの混ざり具合なのであろう。音量の違いが、大きな壁であることは私自身も自覚するところである。
 しかし、すばらしかったとの感想を述べて頂いた。この言葉を鵜呑みにする気はないが、今回の試みは、成功とか失敗とかの次元を離れたところで「遂げられた」との思いが持てたことはありがたい。その面においてY氏は喜んでくれているようだ。

祝宴では、いろいろな方とおしゃべりをするが、肝心のY氏とはなかなかできない。もっといろいろなことをお聴きしたかったのだが。残念。
とりあえずは、設定したことのおおよそは終わった。目の回るような2年間であったが、なかなかスリリングな充実した期間でもあった。

お酒がいつもより、心なしかよく回ったその日の夜であった。


参考までに、記念曲披露時のナレーションを。
 第1章 出会う
  歌 詞 「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり」
 〈ご事蹟〉安政2年 教祖42歳の大患
 幼小の頃から信仰心が篤く、家業とともに神社や仏閣への参詣にも努め、「実意丁寧神信心」を貫く若き日の教祖にとって、家族の相次ぐ死や家畜を失うなどの不幸の連続は、理解に苦しむことでした。日柄方角を見てそのとおりにして、なお降りかかる苦難。その疑問は、自らの神に対する無知、神の前での無力さといった自らの在り方に向けられていく中、教祖自身も42歳のときに大病にかかり、生死の境をさまようこととなりました。
 高熱に冒され、湯水ものどを通らぬ病床の教祖。親戚の者らが集まり祈祷を行う中で神憑りがあり、かつての普請について無礼があったとの金神のお告げが下がります。それに対する「神様、本来してはならないはずの建築を押して進め、日柄方角を見てもらったとはいうものの、狭い家を大きくしましたので、どこへどうご無礼したか、凡夫で相わかりません。方角を見て済んだとは、私は思いません」という教祖の返答は、この時の偽らざる心境でした。その後すぐに返ってきた「その方はよい。ここへ這いながらでも出てこい。その方は行き届いている。神々がみなここへ来て見守っているぞ。その方の信心に免じて、神が助けてやる」とのお告げに、教祖は何を思ったのでしょうか。
 日柄方角を守り、無礼のないように努めつつも降りかかる苦難。無礼を認め、お断りすることにより、ただちに差し伸べられた神の救いの手。これまで参拝し、信心してきた神々に見守られているという、体が震えるほどの感動の中で、実は日柄方角を見るという行為は、神を遠ざけ、わが力のみで生きることに繋がる愚かしい生き方であり、遠ざけられていた神とは、人間に障りをもたらす「金神」ではなく、何もわからぬ人間をも生かし育もうとする限りなき働き、無限の恵みをもたらす神であったことを知ります。
 ここにはじめて教祖は真の神「天地金乃神」に出会い、日柄方角等の迷妄に揺すぶられ、悩まされてきた人生を、大きく転換していくことになります。
 第2章 生きる
  歌 詞 「天に任せよ、地にすがれよ」(『天地は語る』 二二七)
 〈ご事蹟〉明治六年 神前撤去
 農民の身でありながら、神の教えを説く教祖の布教は容易ではありませんでした。さまざまな噂の吹聴や度重なる山伏の妨害。さらに明治政府による神道国教化政策の中で、明治四年には白川家からの神主としての布教資格を失い、明治六年には、大谷村戸長の命により神前にあった一切のものが取り払われました。
 教祖自ら「荒れの亡所」と言わしめた広前には、取次をはじめてから13年余りの歴史のみが横たわっていました。すでに老境に入っていた教祖にとって、世の人々を取り次ぎ助けてくれという神の要請をひたすら身に受け、自らの使命として生きてきただけに、国からその生き方を否定されたことは、教祖に大きな落胆の念をもたらしたにちがいありません。
 そんな教祖に神は「休息」を言い渡します。「力落とさず、休息いたせ」「金光、生まれ変わり、十年ぶりに風呂へ入れ」と仰せられました。元治元年に禁じられて以来の入浴。「戌の年六十歳」であった教祖はその後「酉の年一歳」と覚書に記します。老い先短い六十歳の老人ではなく、多くの未来と可能性を抱える新生児として、教祖は生まれ変わったのです。
 そこには、自らの落胆や動揺を越えて、静かな心で神に向かい、神の導きのままに生きる教祖の姿がありました。時の国家権力に従うのではなく、自らの感情に任せるのでもなく、天と地の間でその声を聴きその意思を受けて生きる生き方です。
 生まれ変わった教祖は、約一か月間の「休息」の後、再び大谷村戸長の命により、黙認という形で布教が再開できるようになりました。そして、神から金光教の信心の要諦を示す「天地書附」が下げられることになります。
 第3章 託す
  歌詞 「心は広く持っておれ。世界は広く考えておれ。
         世界はわが心にある」 (『天地は語る』 111)
 〈ご事蹟〉明治十五年十月十四日のご神伝
 明治十五年、神から「天地の間のおかげを知った者なし。おいおい三千世界、日天四の照らす下、万国まで残りなく金光大神でき、おかげ知らせいたしてやる」とのお知らせを受けます。老いゆく身の上から、少しずつ体の変調も出始めてきたこの時期、教祖はこのお知らせをどう受け止めたのでしょうか。
 教祖にとって、世界を救済するという願いを持ちながら、それを実現していくのは、自らの広前に参ってくる一人一人の参拝者への取次でした。相まみえ、その人の声を聞き、神の願いを伝える中で、参拝者それぞれの心に神が生まれ、神の願う世界がその人にあらわれていったのでした。
 教祖の取次を受けた参拝者たちは、自らの心に生まれた神と世界を、教祖同様の取次により次の世代へと伝え、彼らもまた同様にして、教祖の開かれた道はこんにちまで広がり伝えられてきました。
 思えば、この神伝が指し示す世界は、晩年の教祖一人の中に留まるものではありません。教祖の意思を受け継ぎ、心に神が生まれ、神の願う世界があらわれた人々の連鎖の上に世界が変わっていくという、壮大な神の計画であり、神の悲願なのではないのでしょうか。
 その意味で、私たちは託されていると言えます。我が心の中にある神の願う世界を広く伝えあらわしていくことを。そして、その働きにあふれた世界を次の世代へ託していくことを。