記念曲制作ものがたり
その25 新曲、MIDIで楽しむ

M氏から新曲3曲のMIDIデータが送られてきた。実際の生音には比べるべくもないが、聴きながら楽譜をたどる上では本当に便利なものである。また私のように、楽譜を読みこなせない人間にとっては、作品の雰囲気をつかむ上でも欠かせない。

早速コンピューターで、各楽器の音源を好みに合わせて変更しながら、第1章から聴いてみる。まず笙の音が気に入らない。他の音源を試してみるがどれも「ブー」である。プリセットされている音源の中に「笙」もあったがやはり気に入らない。あの独特な音とその響きは、機械では再現できないということか。とりあえず、ボリュームを下げて聴いてみる。
箏の音は、プリセットされておりかなり近い音であるが、龍笛、篳篥については、微妙なメリカリ等が表現できないので、ただそれに近い音が鳴っているだけという感じである。むろん篳篥の塩梅など出せようはずがない。龍笛はフルートで、篳篥はイングリッシュホルンで代用して聴くことにした。
コーラスは、スキャット系の声をセットした。歌詞を歌ってはくれないが、コーラスの雰囲気は出る。まあ、いかにも機械が出す音なのだが、全体の演奏が確認できるということはすごいことである。

第1章は、笙の先導から曲が始まって篳篥が加わり、そして典楽器全体での演奏となる。ここまでが、いわゆるイントロ部分なのだが、典楽の演奏としての違和感はない。ところがコーラスが入ってくると雰囲気ががぜん変わってくる。今まで経験したことのない不思議な雰囲気なのだ。箏が早掻、静掻や定石的なパターン奏法がちりばめられた音型を刻むことにより典楽のフレーズとして聞こえてくるのだが、コーラスのハーモニーが加わることで、別の音楽に聞こえる。
今までの吉備楽には歌はあっても、和声という概念はなかった。大勢で歌っても、それは全体としての音の厚みを増すためのものだったことに思い至る。すべてはユニゾンであり、それは笛の方でも同じである。歌詞に和声が与えられたことにより、典楽とは違う感じがするのかもしれない。そして、通常の洋楽としてのコーラスとも異なる。それは、典楽という制限された音階の上に成り立っている和声だからなのか。
いずれにしても、典楽でもなく洋楽でもなく、典楽でありながら洋楽でもあるという、こちらが当初抽象的に思い描いていた世界が、こうした具体的な形となって提示されたことに、ある種の感動を覚えたのであった。
第3章も、感覚としては第1章に近い。ただ第1章は、静かな高揚感が感じられるのに対し、第3章ではもう少し積極的な躍動感が感じ取れる。どちらも不思議な雰囲気をまとっている曲に感じた。

一方、第2章は、洋楽的なスタンスを全面に出しての曲であり、ピアノとオルガンの加勢もあって、典楽器は紡がれたメロディに対する伴奏楽器として機能する感じがある。その意味でこの章の主役は洋楽的なコーラスなのだろう。こちらの提示でも、ピッチを第1、3章は典楽ピッチ、第2章は洋楽ピッチで、というお願いをしたところからのことであろう。作曲家のY氏は、たぶんこの第2章が一番書きやすかったのではないか。なぜか、そう思える。制限されている音階の中で、こんなにも素敵なメロディが出てくるのか。さすが作曲家である。たぶん、典楽も洋楽も頓着がない人たちにとっては、この曲が一番なじみやすいと考えられる。

各楽器の音源をいろいろと変えてみては、楽譜を追いながらMIDIを聴く。ここまでできたことに、ふと安堵を覚えながら、しばらく楽しんだ。
「第2章のオルガンは、スローストリングスが一番合うな」とか
「第1章の笙のソロには、ウンジャを入力してみよう」とか
「第3章のイントロ部分は、打楽器を入れると、カッコイイ」とか・・・・。

いろいろ聴きながら、いつしか私は第一章のファンになってしまったのである。
終わりの「我が身は神徳の中に生かされてあり」のフレーズなんか、本当に宗教的で、熱狂的な感動の対極にある静かな感動が、胸の中にジーンと伝わってくる。
「これを生歌生演奏でやると、すごくいいのでは」
夢は、さらに先へと広がりはじめていた。