記念曲制作ものがたり
その21 「いざもろともに」試奏する

2003年11月30日、大阪で審議委員会が行われ、その際に短時間ではあったが「いざもろともに」の検討を行うことができた。
私の中で、この曲は金光教の名曲の一つとして認識していたのだが、わりと知らない人が多いのに少々びっくりである。その意味で「神人の栄光」とは違った演奏のぎこちなさが感じられる。メロディに慣れていないのだ。
「いい曲なのになあ・・・・」

まず、一番気になったのは「神人の栄光」より歌詞の言葉数が多いところから、メロディが早く変化するため、ほぼ主旋律通りに演奏する篳篥、龍笛は、忙しいというか、本来の響きを考えることなく、音孔を追うのみに走ってしまう、ということである。
典楽(たぶん雅楽も含めて)において、例えば2分音符で現された黄鐘(A)という音は、単に黄鐘(A)という音を2分音符分吹くだけでなく、その時間の中で、弱冠の揺らぎや強弱が演奏者個人の感覚により付与される。それが、典楽の持つ響きにつながっていくのであると思う。だから、旋律が忙しく動き回ると、そのようなものが付けられぬまま、ただ音が鳴っているという感じに聞こえてしまう。

やっぱり、典楽を演奏する立場(管楽器)からすると、単純な旋律の方がふさわしいと感じた。
個人的には、主旋律は主旋律としてしっかりしたものを何か(コーラスでも可)が受け持ちながら、管楽器は、主旋律を忠実に追うのではなく、一部省略して伴奏させる方が典楽本来の響きが出せるのではと思った。
また、篳篥と龍笛がユニゾンで進行するのでなく、主旋律を篳篥と龍笛で分担していくことができないか。あるいは、主旋律パートを別立してしまうというのも考えられる。
第1篳篥と第2篳篥、あるいは第1龍笛と第2龍笛なんてどうだろう?。
あくまでも素人考えではあるが、夢はふくらむ。

次に、龍笛のソロから箏がつくタイミングがとりづらい。もっともこれは、何とかできると思われるので、技術的にはそう問題はないだろう。
また、箏パートについても、「神人の栄光」時と同じく難度の問題が出た。ただ、これは手数を減らせば演奏ができるというものではないらしい。かえってリズムに乗れなくなってしまうので可能性もあり、慣れてもらうしかないのでは、とのことであった。

打楽器についても、「神人の栄光」時の課題と同じように、せわしいというか、もう少し数を減らせないかなあ、と言うのが実感であった。

いずれにしても、典楽の響きというのは一つの音がのびていく中に現れていくということに、思いが及ぶ。やはり、洋楽とは違うということを、改めて考えさせられた、数時間であった。

後日、作曲者にも送って聞いて頂かねばならないが、いつになることやら・・・。