巻頭言
「神様へのお供え」
                  金光教財務部長・金光教高師之浜教会長 坂 浦 輝真佐

自爆テロが繰り返えされるイラクに、各国の軍隊が駐留を始めた頃、私は次のような報道に接しました。それは、部隊の任務が終わり、兵士たちがそれぞれの野営テントに帰り、ひとときの休息の準備をしていたときのこと。ひとりの兵士が郷里のカントリーソングを口ずさみ始めました。すると、隣にいた兵士も。それがさらに次々広がっていって、テント全体の大合唱になったのです。ある者は頬に伝うものを拭いもせず、ある者は全く手を止めて真剣に遙か彼方の母国に向かって。郷里にいる親兄弟・妻・子供などの家族への思い、友への思い、恋人や思いを寄せる人への思慕など。さまざまな思いが込められ、余人の介入を全く許さない空気が漂う。報道していたキャスターもしばし口を挟めず、言葉を失う。十分もないわずかばかりの時間ではあるが、ひとりが口ずさみ始めたカントリーソングが、テント内の兵士全体の心を繋ぎ、人と人が殺し合う厳しい現実の中で、極限状態に研ぎ澄まされた兵士の心をも和め癒し、人のぬくもりを求め、人に思いを寄せていく人間らしい心を浮上せしめた。そして、その思いの行き先は、等しく「平和であったなら」ということであったのではないでしょうか。

では、本教における典楽はどうか。典楽は、祭典に彩りを添え、その荘厳さを演出し、祭典の一つ一つの次第を繋げていく大切な働きをなす。そして、一人ひとりが楽を神様にお供えさせていただく気持ちで、奏楽にご信心の真を込め、よりその内容を深めている。前述したイラクの話とは趣を異にするが、奏楽に乗せられてくる皆さんの信心の真に、人と人、参拝者の心も繋げられ、それをご祭主が神様にお取次くださり、儀式の中に神と人の一体感を浮上せしめている、そのような感じを抱きます。そして、ご祭主の参向、祭詞の奏上、玉串の奉奠と、ご祭主の一挙手一投足に、私たち参拝者の神経が研ぎすまされ、ご祭主の動きに同体化されていく。これは、まさに典楽の存在意義を示すものと思われる。楽器の一つ一つ、その習熟は大変なこと。日々の真摯な修練の賜物としか思えない。

しかし、そればかりではない。日々神様に向かわれる信心の営み・稽古があってこそ、祭典の時に神様にお供えさせていただく奏楽にという思いが生まれ、ご祭主の動きを先導し、同調していく楽が奏でられるのであろう。すなわち名人の域に達することを目的にしているのではない、神様へのお供えという真の心を備えもった奏でられ方を求め求めされていることが、本教典楽の根幹をなし支えている。典楽を「金光教の典楽」たらしめているのだと。そして、そのことへのあくなき探求の長い歴史が、重厚さと素晴らしさを加えていると思わされます。この上とも、ご信心の営みをも進めつつ、日々、真摯なご修練にご精励願うものです。