巻頭言
「天地の開ける音」


金光教教学研究所長 竹 部   弘

 数年前、日本海沿岸の港町を訪ねた時、しばし波打ち寄せる岩場を眺めていたことがある。彼方には漁船の影が見え、遙か水平線まで紺碧の、空の青よりも深い碧さが広がっていた。時間にして20分程だったか、碧さの中に白いしぶきが生まれては融ける様を、見るとはなしに見ていると、果たしてこれが1分間に幾度繰り返されるのか、1日では、1年ではという思いが、ふと浮かんできた。そして、晴れの日も雨の日も、平和な時も争いの時も、人類が生まれる以前から、気が遠くなるような時間、止むことなく繰り返され、しかも二つとして同じものはないと思い至った時、一種、神秘の感に打たれた。絶え間ない波の音と共に、居ながらにして悠久を感じ、普通の景色と見えたものに、永遠を映す天地が現れた瞬間だった。

 平成15年、教祖120年祭の御年柄に、長野博一氏作の絵本『教祖さま』が刊行された。その表紙には、御神前に平伏して御祈念されるお姿が横側から描かれている。神と人との間という容易にはつながらぬ両者を結ぶ御生涯を凝縮した絵が、尊いものの前に額づくお姿である。そして、その背後は広前の描写でなく、額づくお姿を中心として、黄色からオレンジへと徐々に変わり行く彩色がなされており、どこでもありどこでもない天地のただ中にある祈りの姿と、それを包むように響く神様からの呼び声を思い描くことができた。

 今12歳になっている長女が5歳で吉備舞を習い始めた頃、練習でも祭典の奉仕でも初々しく、真っ直ぐに伸ばした指先を見つめる瞳、その視線の先に何が見えるのか、自分も覗いてみたいという思いにならされた。また、舞の始まりと終わりにひざまづき、小さな体を更に曲げて一礼する様子も健け なげ気でいじらしく、心に残った。親バカと呼ばれるであろう親心かもしれないが、今になってみれば、娘の所作を通して感じたのは、伏し拝み、仰ぎ頂く心の構えが表されたものであり、その所作が舞う者の心を育てもするのだと思える。

 私たちが人として生きて死ぬ、その場を教祖金光大神様は「天地の間」と教えられた。神前拝詞に「天地に生命(いのち)ありて万の物生かされ、天地に真理(ま こと)ありて万のこと整う」とお唱えしているように、私たちの生は天地の生命と真理に包まれ支えられている。そのことに向けて、数々の御教えと共に、様々な機会に、様々な形を通し、様々なものに触れて、心は開かれていく。楽の調べと共に祭典が始まり、多くの人々の思いと祈りを乗せて、しかし人間の思いだけでは済まないものに導かれて、天地の律が舞い下りて来る時、その扉が開かれるのだろう。