巻頭言
「身の丈の自分から」


金光教総務部長・金光教東堀教会長 阪 井 澄 雄

御本部では、天地金乃神様の御大祭がお仕えになり、奏楽の御奉仕にもお当たり下さって、ありがたいことでございました。4月1日の御祭典には、教外特別参拝者の中に、岡山県に縁のある国会議員の一人として、片山虎之助氏の姿もありました。SPが同行する物々しさでしたが、他の参拝者と共に拝詞集をめくりながら祭典を拝まれる様子が印象的で、他の国会議員も異口同音に、殺伐とした今の時代に欠けている、本来大切にしなければならないものを再確認させてもらえて、大変ありがたく感銘深かったとの感想でした。

 短時間ながらお話ししたのは、誰彼問わず、自分というもののイメージが身の丈よりウンと大きくなってしまっている時代だ、ということです。「ニーズを開拓する」というような、消費者の欲求を拡大する戦略が一般化し、便利さの追求にも拍車がかかり、結果的に自己の拡大過剰.を招来したのでしょう。欲求ばかりが先行し
て不満感が募り、肥大した自己の意識が周囲の人とぶつかり、いやでもストレスが溜まります。それで、結局は何が問題かと言うと、本当の自分が判らなくなってしまうことです。今日、今、生きている事がどれ程凄いことなのか。どれだけのお働きを受けてのことなのか。それが判らなくなる。

 教祖様は、「残念至極と始終思い暮らし」と仰せになるほどの苦難の前半生におかれても、気付かれる限りの事柄には実意を尽くされます。生活の在られ様にも、神仏に向かわれる御姿勢にも、実意丁寧な心は持ち続けておられ、それゆえ神様に通じる道が開けていきました。そこが、私たちにとっては非常に大事で、ありがたいのであります。つまり、鍵は、隔絶した別世界にではなく、実意丁寧な神様への謙虚さにこそあるのですから。教祖様がもし「自分こそ神である」という尊大な御姿勢であったなら、このお道はあり得たでしょうか。直信・先覚の先生方が心惹かれ、信心を求めて行かれたのは、「私が、なんの、神であろうぞ。私は、何も知らぬ、土を掘る百姓であります。…生神ということは、ここに神が生まれるということで…。私がおかげの受けはじめで…」の御姿勢を、教祖様が貫き通していかれたからでしょう。

 今、科学も技術も格段進んだ現代に生きる我々は、一層素直に、謙虚に生きる事が大切であると思わされます。天地の間に生かされて生きる身の丈の自分の今.が喜べるように心が広く豊かであれば、拡大過剰.の時代に呑み込まれることなく、広大な親神様の御徳に浴する事ができるのです。
 教祖様や歴代金光様、また、直信・先覚の先生方が遺して下さった、たくさんの貴重な道標を一つ一つ心に頂き、身に行わせてもらって、一層の信心に励ませて頂きたいと存じます。