典楽会元会長
特別指導員小井 勉氏帰幽

弔 辞(会長 榎本 寿行)
 故の金光教典楽会会長 小井勉先生の御霊前に謹んで申し上げます。
 人の死は逃れられず、天地の道理のままに誰もが通っていく道であることは、よくわかっているつもりですが、今、こうしてあなたの前に立ち、最後のお別れの言葉を申し上げるのは、本当に悲しいことです。もう少し我々と共に生きて頂きたかった。
 小井先生には、昭和五十年四月一日、問題が山積する当時の典楽会会長という重責を受けていただき、以来教祖百年祭を終えた昭和五十八年十一月三十日まで四期九年という長きにわたり、御用に務めていただきました。
 その間、何かと批判の多かった典楽会の規約の改正による楽人階級制の廃止、会員以外の講習も可能な典楽教室の開設、画期的な典楽解説書の刊行など、身に受けたお道の信心そのままに、実意を込めつつ会をまとめ、後進を育成し、こんにちの典楽会の基盤とここからの進むべき道を示してくださいました。
 いつもにこにこと、ほほえみを絶やさず、やさしく楽の道や信心の姿勢を教えていただきました。そのお姿にふれ、共に御用していく中で、私をはじめたくさんの会員が、お道の信心の道たるところに触れ、御用の何たるかを分からされたことと思います。
 典楽会は、たくさんの方々の支えの中で、半世紀を越えての盛んな活動ができてきています。このような基盤が生み出されたのも、ひとえに小井先生のご尽力によるものであると、今振り返れば気づかされます。
 この上は、霊神として会の発展を見守ってください。私ども会員一同、心をひとつに、信心と楽の稽古に努め、神さまに喜んでいただく御用になってまいるよう精進させていただく所存です。
 小井先生、ここまでほんとうにありがとうございました。先生の御霊のここからのみ働きが、ご家族ご親族の上にも、典楽の上にも立ち現して頂けることを願いつつ、お別れの言葉とさせていただきます。
 平成18年9月15日
 

追 悼 文「小井 勉先生を偲んで」(西近畿支部長 桑山啓旦)
 先生にはご生前いろいろとご指導を賜りましたこと御礼申しあげます。
 追悼文を書かせていただくということで、この一週間様々な出来事が思い出として浮かんできたことを二、三書かせていただきます。
 先生が典楽会会長を退かれてからのご晩年には、よくご大祭のご用を、ご一緒する機会がありました。
 金光駅から広前までの距離の間に、「桑山ちょっといっぷくせんか」と云われ、また、広前から三階の楽人控室へ行く途中でも「いっぷくせんか」と声がかかります。お体の大きい方でしたから随分と足腰に負担がかかってきておられるなと実感しました。
 最後にお会いしたのは典楽会五十周年記念式の時でした。その時「今日は、私が五十周年記念曲をコーラスと一緒に合わせて吹かせてもらいます」と申しあげると「そうか」とにっこり笑ってくださったのが、最後の会話となりました。
 先生は、「いつも本部のご用は断らずさせてもらいなさい」と、云われ私もそのことを実践させていただいたおかげで、今日まで多くのご用の中でお育てをいただき、今日の私があると思い、改めて先生に御礼申しております。
 西近畿では、点在する阪神間の管の楽員がせめて月一度揃って稽古させて頂こうと、仕事を終えてからの六時過ぎから九時ごろまで『月曜会』という会が組織され、先生と故金岡先生にご指導を頂き、定期的な練習会を行なっていました。
 この練習会のために、先生はご自宅からバイクでフェリー乗り場まで来られ、そこからフェリーで須磨まで、また、高速バスが開通した五、六年前からは洲本から高速バスで三宮までそこから会場(山手教会)と三時間の練習の為に往復四時間かけて来てくださり、一度は明石海峡の橋の上でバスが立ち往生して一夜を明かされるということにも出会われました。
 ご指導ぶりは、悪い処を注意されるのにも、大祭まで一週間ほどしかないのに先生は「たっぷり時間はあるからな」と言われ、心配してくださっていたと思います。
 先生の終祭、告別式には、孫さん(松井博士さん、金光さん)が先生の生前のテープを編集して皆様に聞いていただきたいと用意され、会葬者の玉串の時に、聞かせていただいた次第です。孫さん達も本部楽人になられ、これからの教会のご用はもちろん支部、本部の御用の上で、先生の楽技、信心を受け継がれていかれると思います。
 先生には長い間のご指導ありがとうございました。典楽会の発展の上に御霊ながらにお働き下さることと信じております。