記念講演


楽即信−金光教典楽の世界−(3)

三矢田 光(金光教島之内教会)

四、典楽会の結成
●楽長の遺産●
 昭和十六年に尾原楽長が死去し、やがて昭和二十九年に典楽会が結成されます。それは教規改正で奏楽組織が本部機構から消滅したことへの対応であり、必ずしも積極的に選び取られた道ではありませんでした。しかし典楽会の結成は、典楽の伝承と発展の上で、大きな意義を持つ出来事でした。
 尾原楽長のような専従の専門家がいるならともかく、職業を持つ信徒層の自発的奉仕を基盤とする典楽を、本部組織の一部として運用することは、やはり無理があります。
 また、音楽という自由で創造的な営みを教務が直接運営することは、望ましいことではありません。あえて直接の管理を本部が行っていたとしたら、儀式音楽に特化した固定化の中で、典楽の音楽領域はやせ細ってしまったかも知れません。
 自主団体である典楽会の奉仕を本部が位置付ける現在の形は、本教の実情と精神に即したものであり、世代や個性を越えて運用可能な体制であると言えます。

 ここでわかっておかなければならないのは、典楽会の結成は、尾原時代に培われた四つの基盤(.楽長の遺産と呼んでもよいでしょう.)の上に成り立っているということです。そのうち三つは、形のあるものです。吉備楽・中正楽の楽曲群。各地の楽人。奏楽の定着。この三つです。四番目のものは形を持ちません。あると言えばあるし、ないと言えばないようなものです。しかし、この四番目の遺産が、最も大切な遺産だったのです。
 それは典楽体験によって養われた、典楽への願いです。典楽感覚、あるいは典楽の心と呼んでもよいでしょうか。そこにあるすばらしい働きを知り、目指されている世界の奥深さを感じ、それを現し続け、展開させていこうとする強い願望です。楽部廃止という状況の迫りを受けて、この希いが高められ結集されたところに、典楽会は生まれたのです。ですから典楽会とは、典楽の願いを継承し実現し続けようとする有志の集団と言ってよい、と私は思うのです。

 このように、はからずも楽部が消滅してくれたおかげで、典楽の歴史が求めてくる世代的な課題に、いやおうなく対応しなければならなくなったところに、典楽会結成の必然性があったのです。つまり、何もないところから典楽を生み出した世代から、すでにある典楽を実践していく世代へと移行していくについて、先々まで無理なく展開していけるような態勢を築いていく必要がありました。そこに典楽会の基本的な使命もあるのですね。
 そしてまた、典楽会の基本的性格を規定するものは、こうした過去からの、あるいは内からの要件だけではありません。昭和戦後期という時代は、典楽が誕生した時代から大きく様相を変えています。戦後復興から高度成長へと時代が移ろうとする中、日本全体が体験していた近代化の波は、組織感覚や師弟観念の変化、あるいは合理的学習法への欲求という形で、典楽に押し寄せようとしていましたし、何より音楽環境がまったく変わってきていました。
 こうした時代からの、あるいは外からの要件がつきつけてくる課題は、実は典楽会結成直後に、際やかな形で浮上してきていたのです。

●伝統と純化●
 昭和三十一年、教内新聞への投稿で、本部大祭での吉備舞奉納へ批判が浴びせられました。典楽そのものが時代遅れであるとか、典楽会の旧態依然とした体質に根本的問題があるのだといった議論まで出てきたのですね。これは大祭での雰囲気や実情の反映として出てきたもので、儀式事務委員会や議会でも取り上げるところとなります。
 この時の批判的な物言いを、一人の楽人として受け止めたら、いったいどういうことになるだろうか、と私は思い描いてみるのです。大切なご用であると言われ、信心そのものでもあるとも言われ、修業に打ち込み、奏楽をお仕えしてきた。それに対して、「もうその音楽は古い。だいたい典楽のあり方そのものが問題だ」という批判が浴びせられたわけです。いったい自分なら、どういう受け止め方ができたろうかと考えるのです。
 実際のところ、楽人の方々はどうされたでしょう。それは、批判にじっと耐えながら、それまで通り典楽のお供えを続けていく、ということであったのですね。実はそのことは、非常に大きな意味を持ったと思うのです。
 つまり、「美しくて使いやすい音楽だから金光教の祭典に使用する」というのではなく、「音楽として良かろうが悪かろうが、時代の流れに合おうが合うまいが、本教の儀式音楽はこれしかない」という選択をしたことになるのだと思うのです。
 借り物であった吉備楽は、この時いよいよ本教の典楽になり、吉備楽・中正楽という、本教典楽の音楽様式としての伝統が確立したことになるのではないか、と思うのです。
 振り返ってみれば、戦後教団では「教祖に返れ」というかけ声のもと取次運動や制度改正が進められ、内面の充実が重視され、盛んであった対外演奏活動は行われなくなりました。楽部の廃止で制度的基盤は消滅しました。さらに、尾原時代以来の封建的慣習からの脱皮が求められるようになりました。そして、音楽としての典楽が感動を与える力を失っているという事実をつきつけられたわけです。こうして、活動・制度・慣習・音楽的価値において、典楽は、よりどころとしてきたものを剥ぎ取られてしまったのです。
 それは典楽の新たな歩み出しのために必要なことであったのですね。歴史の中で降り積もった塵を払い、新たな選択と決意をもって典楽が再生していくために必要なことであったのです。問題がない時は、願いもぼんやりしています。冬の厳しい風が吹き付ける時には、「これだけは放してはならぬ」と、大切なものをしっかりつかもうとします。時代の風が寒風となって典楽の純化をさせてくれた。今から当時を思う時、そう思えてならないのです。そして、その時つきつけられた問題を、問題としてきちんと受け止め、それに答えた時、本当に楽長の遺産を継承したことになるのだと思うのです。
 その後の典楽の歩みについては、今日は申し上げません。ただ、典楽を取り巻く音楽状況について、一言申しておきます。
 近年、雅楽が広い年代層に興味をもたれているという事実があります。雅楽の篳篥を最近はじめたある女性は、「あの音が大好きです。癒される感じがします」と話していました。再び日本人の音楽感性が変わってきています。いや、日本だけではありません。ロックにおける噪音の多用、モーグ以降のシンセサイザーの台頭など、日本的な音の味わいが受け入れられる素地は、じょじょに浸透してきました。フォルクローレの流行やその後のマーラーへの注目などは、自然に帰ろうとする大きな潮流を示しています。
 今日にいたれば、「典楽は古い」という音楽感覚は、すでに古いと言わねばなりません。典楽が音楽としての力を復活させる時代がこようとしているように、私には思えるのです。

●尾原時代からの 慣習をめぐって●
 それから、楽長の遺産ということに関わって申し上げておきたいことがあります。典楽会発足以来、尾原楽長時代の慣習の中で改めるべきは改めねばならないという問題意識を持ってきておられます。それは大切なことであり必要なことではありますが、今日において有害な部分が目につくからといって、その面からだけ過去を評価してはいけないということです。
 典楽の教授や奏楽奉仕における慣習の問題。秘伝や秘曲、あるいは伝習のあり方全般に見られる秘事主義の問題。階級制とも見られなくない段階主義や師弟関係の問題。非合理的な学習システムの問題。
 例えばこのうち秘事主義について、吉川英史氏は、すでに昭和23 年に、その効用を認めつつも、それは今日使うにはあまりに副作用の多い劇薬である、と述べています。しかし、現代においてそうであるからといって、過去もそうであったとは限らないのですね。ここでは、「風姿花伝」についての、馬場あき子氏の評論から、別紙口伝中の「秘すれば花」の内容を秘事主義との関わりで解釈した部分をご紹介しておきます。
 何事であれ一芸に習熟するまでにには、さまざまな疑問もあり、誤りもおかす。しかし、疑問にすぐ答えてくれる者はいないし、誤りも指摘はされても、なぜ誤りかを即座に知るという事はなかなかない。一芸の習得に「なぜか」という質問は、余りないのが、いわば日本的な稽古の場面だった。つまり、「問う」のではなく「悟る」のを本道としてきたのであり、「秘する」とは、「問い」を自らのものとするため、「答えぬ」だけなのである。
 こうした日本的な修行精神を理解せずに、合理主義の発想から過去の楽人の方々の営みを見たのでは、とうてい典楽史の深みを味わうことはできないと思うのです。

おわりに
 昭和二十四年、日本橋教会長の畑やすし先生が大学院生の時のことです。九州の日田教会にお参りされて、泊めていただかれました。翌日はご大祭で、その朝のご祈念の最中に、ふと思われたのです。ゆうべは温かいふとんに休ませていただき、白い米のご飯を頂かせていただいた。ありがたいことだなあ。しかし、自分のお供えは少なすぎる。これで一年の御礼と言えるだろうか。といっても、あとは帰りの汽車賃しかない。申しわけないことだなあ。考えだすと、非常に気になるのですね。相すまないことだという気持ちが押さえられないほど強くなってきました。やがてご祈念が終わると、お結界で堀尾保治先生が、教典奉読後、しばらく目をつぶってじっとしておられます。やおら口を開いて、「氏子が道中使った費用も、神はお供えとして受け取ってやる」。
 なんとありがたい神様であろうかと、畑先生は思われたのですね。参拝するということを、それほどまでに喜んでくださる神様なのかと。畑やすしという、ほかの誰をもってしても代えられない一人の氏子が、自らの体を運んでお礼を申し上げることを、この上なく喜んでくださり、「こんなにわずかなお礼で、まことにあいすまないことだ」とうつむいていると、「そんなことはない。神は喜んで受け取るぞ」と声をかけてくださらずにはおれない、そういう神様なのですね。
 そういう神様をいただいているお互いなのです。
 私は、この時の堀尾先生のお言葉を典楽に置き換えてみるのです。「氏子が練習にかけた手間ひまも、神はお供えとして受け取ってやる」。
 皆さんが、典楽のご用をお仕えされるにあたってかけられた、手間、ひま、費用。喜びと苦しみと忍耐と継続。楽の修業の中身そのもの。その全部を神様はお供えとして受け取ってくださるのですね。
 ただし、それにはたった一つだけ条件があります。それは、「ご用と思ってお仕えしますので、どうぞそのようにお受け取りください」とお願いしてさせていただくことです。そのような心にならなかったら神様はご用として受け取ってはくださらないし、お供えにもなりません。畑先生の場合でも、九州に行くには行ったけれど、物見遊山やお義理であったり、「惜しい。もったない」と思いながらたくさんのお供えをされていたら、どうだったでしょうか。「受け取ってやる」とは言われなかったと思うのです。このお話は、よくよく味わってみねばなりません。たとえば、お供えの多い少ないを楽の才能や錬度に置き換えたらどうなるでしょうか。
 典楽は二つの柱に支えられています。
 一つは、音楽という形あるものです。典楽には様式も楽曲も必要です。技術を養い、感性を育て、音楽としての高みにのぼせるということがなくてはなりません。伝統に立脚すると同時に、伝統に命を吹き込み続けるところに成り立ちます。次の和泉乙三先生の言葉は、そこをきちんとおっしゃってくださっています。
 「これですんだとは思いませぬ」という実意と熱意とを持って、芸に対するまことというものが常に燃焼して、そこから技に励む時、吹く笛が神を動かし、弾く箏が神を泣かしめ、また、それを聞く人が自ずから心を清められて、世の中の苦しみも心配も洗い流して、生活の強い力を与えるようにもなる。神様にも人々にも通じて、不思議な働きを現すことができるような、優れた芸術が皆さんの中から次々に現われてくることを、私は切に期待する。
 もう一つは、畑先生のお話をお借りして申しましたように、ご用の心という形のないものです。楽とそれを奏する自分自身を捧げ奉る精神の据え方と言ってもよいでしょう。目には見えないものですが、この部分が欠けたら、典楽はただの音楽になってしまい、お供えとはなりません。
 この二つの柱がお互いに支え合うところに本教の典楽はあるのですね。しかしこの二つの柱はお互いに妨げ合うこともあるのです。その難しさと向き合うところに典楽は成り立つのであり、そういう典楽を生み出し続けての百有余年の歩みなのです。そのことを、今日のお話では申し上げてきたつもりです。
 その歩みにお礼を申し上げ、今後ともこのお道の大切な中身として世に働きを現し続けていかれることを願い、お話を終わらせていただきます。
(おわり)