記念講演


楽即信−金光教典楽の世界−(2)

三矢田 光(金光教島之内教会)

二、典楽の受容と実践

●神様のおいさみ●

吉備楽が本部祭典に用いられるようになると、「これはすばらしい音楽だ。儀式が一段と荘厳になる」と受け止められました。そして、各地の教会にも採用されていきました。その実態を受けて本部で制度化されたのです。
では、各地の先生方にとり、典楽とは何であったのでしょう。また、楽人の方たちの実践のありようは、どのようであったのでしょう。

久留米教会初代の石橋松次郎先生は、「吉備楽は神様のごちそう」であると言われ、楽人は「神様と先生との仲を取り持つ役目」と言われて、典楽を奨励されました。そこでは、楽は人の心を和らげて神様に隔て心なく向かわせてくれるということと、神様も楽でくつろぎ喜ばれて親しく人間の思いを受け働きを現してくださるという、両面が押さえられています。典楽というのは、人間の側のつごうや価値からだけでは成り立たないのですね。
そこで注目したいのが、「神様のおいさみ」ということです。山県二雄氏の『百年物語』の中に、次のような記述があります。

    九州の吉備楽は明治四十二年小倉教会設立二十年大祭より盛んとなった。「吉備楽は、神様のおいさみになることだから、楽人は千人万人の代表と思って一心に習って、御用に立ってくだされよ」。それが桂部長の心願だった。(上268頁)

「勇み立つ」という言葉があるように、「神様のおいさみになること」というのは、神様が楽の音に感応して奮い立たれ、いよいよお働きを現してくださる、という意味に取れます。しかし、桂松平先生の言われる「神様のおいさみ」は、そういう意味だけではないと思います。

明治二十七年、石橋松次郎先生は、諸事情を振り切って布教に身を捧げられる覚悟を決め、あるお宅に身を寄せられました。様子を案じて桂松平先生が訪ねて来られます。その夜ご祈念をしておられると、ご神前から「リンリンリン」という美しい鈴の音が聞こえてきました。桂先生は、「神様がおいさみじゃ」とたいへん喜ばれたというのです。

この鈴は、人間が鳴らしているのではありません。おそらく鈴そのものも実際にはないのでしょう。すべて神様の業です。神様は、嬉しい時、感極まられた時は、音を鳴らされるのです。それを聞いて人間も、神様のお心に適ったことを知って、無上の喜びを味わうのです。

「神様のおいさみになること」というのは、こういう中身を含んでのことなのですね。典楽は人間が奏でるのですが、本質においては神様が奏でられるものでもあるのです。

●神様の打つ太鼓●

このことを、よく示す事例があります。石橋松次郎先生のご伝記『橘の香り』から、少々長くなりますが、田中倉次さんの奏楽はじめのご体験について読ませていただきます。
     十一月(大正十三年。『石橋松次郎師教話集』では、大正十二年)に入って、田中倉次が脳貧血で斃れて病状は悪化の一路をたどった。発病と同時にお願いに出た。師は早速お願い申上げると、自分の横に田中が白装束で座っている
    「田中倉次は寿命切れでございましょうか」とお伺い申上げると
    「寿命」とのこと
    「今死にましては大変でございますから、死装束を、楽人の装束に着換えさせて下さい」とお願い申上げた。倉次は命拾いもしたが、師のそのお願いについては、師から一言も承っていなかった。
    柳河教会の大祭に師のお供する程におかげを頂いた。汽車が矢部川駅に停車した時、
    「田中さん、今日は柳河で太鼓のおかげを頂きなさい」とのお言葉に田中は、鳩が豆鉄砲を喰ったように、目をパチクリして、「先生御冗談でしょう。私は太鼓など、とても打てません」
    「心配ない。神様が打たせて下さるからおかげ頂きなさい」とおすすめになる。田中は真逆と思っていると、大祭直前、「田中さん、太鼓のおかげを頂きなさい」とのっぴきさせない。田中は心をきめ、一心に神様におすがり申上げて、太鼓の前に座って撥を構えたまでは覚えていたが、後は夢中で叩いた。後で楽人に聞いて驚いた。初から終りまで一糸乱れずおかげ頂いたとの事。以来、田中は半生の間、九州の典楽界に重きをなしたのである。
     石橋の在る所、恰かも形に影の伴う如く必らず田中の姿があった。(62頁)

 この太鼓は、神様が打っておられるのですね。田中さんは、神様の楽器なのです。不思議なことですが、そういうことはあるのですね。
ここで注目されるのは、田中さんの心の構えです。楽の経験はまったくない。大切なお祭りの太鼓を叩けなどと先生何を血迷われて、と思いそうなところ、田中さんはその通りにされたのですね。どんなお心持ちだったでしょう。清水の舞台から飛び降りるといいますか、ままよ、というお気持ちでしょうか。それで演奏は無事にできたというのです。

このご体験を、とおりいっぺんの合理性で理解しようとすると、行き詰まってしまいます。ところが、日本音楽を勉強していくと、「ああ、なるほど」と腑に落ちるものがあります。
 多くを語る時間がありませんから、ただ一面からのみ申し上げます。吉川英史氏の『日本音楽の性格』の中に、次のような一節があります。

    「自我」というものがのさばっている間は到底、厳しい修業はできないのである。自我を大事に守っていては、到底師匠の鞭に甘んぜられるものではない。……まったく日本音楽の荒稽古は人格を無視して行われるのである。人間扱いをしないのである。人を人と思わぬやり方なのである。「自我」という身のサビを「難業」という砥石にかけて磨き落とすのが日本芸道における練成法である。こうして「自我」を捨て去り、大自然と合体し、悠久の大我に生きる者のみが、限りある人間界から離れて、万能の理想郷へ導かれるのである。芸道の法悦境に達し得るのである。(130〜131頁)

 考えてみますと、この時の田中さんの太鼓のご用は、条件のないご用なのですね。そもそも、なぜ自分が楽をするのかという前提さえ教えてもらっていません。だから、自分の思惑やつごうを捨て去って、仰せのままにお仕えする以外の受け方はなかったのです。そうして受けた時に、それは日本音楽の修行の目指している、自我を捨てるということになっていたのですね。だから楽そのものとして太鼓を叩くことができたのです。おそらくその時田中さんが味わわれた境地は、「芸道の法悦境」と言ってもよいものだったと想像するのです。そのようにさせてくださった、石橋先生のお導きでもあったと思うのです。

●典楽の修行と信心●

若松教会の八十年記念誌に、吉永やす先生の典楽修行の様子が述懐されています。

    晩年、「お琴の前に坐ると、もう嫌なことも何もかも忘れてしまって、一番楽しみじゃ」と言われていたそうですが、それ程に、精進を重ねられたのでございます。今日、九州の典楽の盛んなのを見せて頂くにつけましても、そのやす師の御努力が偲ばれるのでございます。生来、器用であられましたが、一片(ひとかた)ならぬ努力も重ねられたのでございまして、お琴がない時は、糸を畳に十三本引いて稽古なさったそうです。お忙しい時は、夜遅く御広前の端の方で、一人稽古をなさっておられました。ある晩、ある総代の方が酔っ払って参拝され、やす師が一人でお稽古をされているのを見られて、「吉備楽じゃ、人は助かりませんばい」と言われて、やす師は苦笑されたのですが、いつも、真の御用になりますようにと願うてなさっておられたのでございます。(81〜82頁)

吉永やす先生が典楽を始められたのは、大正の中頃か終わり頃であろうと思われます。なぜ、やす先生は、この時期典楽を始められたのか。これほど熱心に打ち込まれたのか。

その頃、ご主人の甚太郎先生は、教区の支部長として席の暖まる間のない忙しさです。やす先生はお広前のご用を仕えられながら、主婦として、母としての役割を果たし、中風に罹っておられた初代教会長・吉永よし先生のお世話をしておられました。いくつかの教会の兼務教会長も務めておられました。量の上でも質の上でも、たいへんなご用の厳しさというものを背負っておられたのです。

だからこそ、だと思うのですね。それだけの務めを果たしていけるものが自分の中にあるだろうかと不安にも思われ、実際、日々のご用の容赦ない迫りに、ともすれば押し潰されそうになる。しかし、できない、ではすまない。そこを支えてくれるもの。ご用の基盤となってくれるもの。それを典楽の稽古から培われようとされたのだと思うのです。

日本における芸は、術ではなく道なのですね。技術を高めてより高度な曲に挑んでいくことに必ずしも主眼がおかれません。初心者にも弾ける曲を、一流と言われる人が何百何千何万回と繰り返して練習していきます。その成果は、微妙な間や調子のつけ方にも現われますが、正しくは、演奏の品格として現われる、と言ってよいと思います。内面を深めていくことで、演奏にひだが加わるのです。曲を仕上げていくというより、奏でる自分を磨いていく作業なのです。吉川英史氏は、日本における音楽とは、「自己のけがれを洗い落とし、心にうるおいをつけ、小我をすてて大道に生き、人と調和し、人生を正しく美しく生き抜く」ための修道であったと位置付けます。だから日本音楽の教本には演奏技術はさておいて作法手順や心構えが示されるというのですね。

そうした日本音楽の修行観と、神様のごちそうであり神様ご自身のおいさみであるという思想が結びつく時、典楽は、祭典での奏楽を通して間接的に信仰の中身であるというより、それ自体がそのまま信仰実践であり、信仰の修業であり得たのだと思うのです。吉永やす先生の典楽修業とは、そのようなものだったのではないかと思うのです。

総代さんの、「吉備楽じゃ、人は助かりませんばい」という揶揄に、声高に言い返すのでもなく、うなだれるのでもなく、じっとその言葉を受け止めながら、「真のご用になりますように」とご修行に心を注がれた姿に、典楽と信心が一つになった実践のありようを感じさせていただくのです。

同じ冊子に、「熱心に楽の稽古に励まれていた、ある男の御信者が火事で楽器が焼けてしまいました。よく見ると外側の袋だけが焼けて、中の横笛は無事であったという話も伝えられています」と記されています。あるいは、東小郡教会の『梅の花の信心』には、「『直接、神様のご用をさせて頂く尊いご用なのだから、有難くさせて頂けば必ず徳が頂けます』というのが、お楽のご用に対する二代の信念であった。水虫がひどくて一ヵ月も学校を休んだ人、足が悪くて結婚できない娘が、お楽のご用をしてから水虫が全治し、良縁を得て結婚したというおかげ話も残っている」と記されています。

なぜ典楽で病気が治ったり、縁談が調ったり、笛が奇跡的に焼け残ったりするのでしょう。それは、典楽という音のお供えと、それを奉仕する心を神様が喜ばれるからであり、祭典の添え物ととどまらず、練習の日々も含めて、それ自体が信心そのものの営みと信じられたからです。だから典楽でお徳がいただけると言われ、こうした出来事が生まれ、信仰の大切な営みとして語り伝えられているのです。

尾原楽長に直接正式の入門手続きをした人だけで一万二千を越えます。今日までの典楽史全体では、舞人さんも含めるといったいどれほどの数の方々がご用をしてこられたことでしょうか。音楽としての典楽に心ひかれた方。「わしは典楽が道楽じゃ」と言われる方。衣装にあこがれてという方。「自分にはそういう才はないがなあ」と思いながら先生のご命のままにお仕えしてこられた方。構えもこだわりもなく生活の中に楽をとけこませている方。きっかけや思いの籠め方は、人によりさまざまです。そして典楽は色とりどりの花を咲かせてきたのですが、しかしそれを全体として見れば、今申しました楽がただちに信になる世界、それを根のところに持っての歩みであり今日であると思うのです。

三、中正楽の思想■

●揚子法言と楽記●

大正4年に中正楽が作られました。本教の儀式のために生み出された音楽様式であり、本教史上特筆すべき宗教芸術創出の試みであったと言えます。

ここで問題になるのは、すでに吉備楽があるのに、なぜ中正楽が必要であったか、ということです。
尾原博氏は、「吉備楽の家庭楽では、女性が歌います場合、祭典には華やかすぎるという教団側のご指示で、おごそかな感じの中正楽をつくることになった、と父が話していたのを記憶しております」と伝えておられます。
また、尾原楽長にはもともと金光教独自の儀式音楽を創出したいという願いがあったということもあります。
あるいは本部という広い祭典空間には、室内楽的な吉備楽よりもオーケストラ的な中正楽のほうがふさわしい、という側面もあるでしょう。

こうした理由は、それぞれ中正楽の性格や創出の経緯の一端を示していると思われます。しかし音楽的側面からだけ見たり、個人の思惑や、具体的な出来事だけを取り上げたのでは、中正楽創出の意義を全体として正しくとらえたことにはならないと思うのですね
たとえば音楽的な面からだけ考えていくと、吉備楽と中正楽を音楽的に比較して、「中正楽のこういう点は吉備楽に優っている。だから中正楽が作られたのだ」という理解をします。すると吉備楽は中正楽より価値が低いという結論になります。しかしそれはちがうと思うのですね。実際の歴史とも合わないと思います。

では、中正楽の大きな意味合いをとらえる上でのポイントは何か。どこに注目すればよいのか。
それは、「中正楽」という名前そのものです。そこに鍵があります。結論から申しますと、中正楽というのは、吉備楽に取って代わるというよりも、その誕生の精神にふれた時、吉備楽も含めた典楽全体がもう一度新しい生命を得るような、そういう思想として生まれたという面があり、ここが非常に重要なのだと思われます。典楽の働きが生き生きと現されていき、積み重ねられていく中で、新しい独自の音楽を生み出さずにはいられないほどに、その内的な圧力が高まってきた。それと同時に、音楽的だけではなく全面的に、「本当の典楽とはどのようであればよいのか」という求めも高まってきた。そこを見るのでなければ中正楽を知ることはできないのです。それが「中正楽」という名に現われているのですね。

そこで、中正楽という命名の背後にある思想から、その誕生の精神を読み解いてみたいと思います。
「中正」という言葉が、中国の思想家揚雄の「法言」という書物から採られたことは、ご存じの通りです。「あるひと問ふ。五声十二律を交ふるや、あるひは雅たりあるひは鄭たるは何ぞや。曰く、中正ならば則ち雅、多哇(しあい)ならば則ち鄭なり」という文言ですね。「ある人が尋ねた。同じ五声十二律を用いて作ってもある曲は雅正となりある曲は卑俗になってしまうのはどういうわけだろうか。答えはこうであった。中正なら雅正となり、華美に走れば卑しくなるのだ」。

「鄭」というのは「鄭国の音楽」のことで、「淫俗でよくない音楽」というほどの意味です。「多哇」は「哇多ければ」と読み下されることもありますが、妄りがましい声をほしいままにすることとか、歪んだやり方がはなはだしいこととか解釈されています。感情にまかせて過度な表現をしたり、効果を追求しすぎて奇をてらえば楽の本質が失われるというのですね。

これには、さらにもとがあります。東洋音楽思想の古典とも言うべき「楽記」ですね。その中に、孔子の弟子である子夏に、魏の文侯が、「古の楽は眠い。鄭や衛の国の楽は飽きずに楽しめる。なぜだろう」という質問をする場面があります。子夏は答えの中で、古楽の性格を「和正以広」と述べています。これを揚雄なりに集約した言葉が「中正」であったのです。

「楽記」のこの部分を、今日の日本で正しく感じ取れるように表現するにはどうすればよいかと思っていましたら、吉川英史氏がすばらしい訳をしておられました。こうです。「古楽は奇をねらったり、人の意表に出ることをしない。調和と中正と平静とを尊ぶのである。……古楽はこのように平静にして悠々迫らざるものである。それ故に道を尊ぶところの君子はこの古楽を楽しみ、古楽によって身を修めたのである。……古楽は感覚的な美と道徳的な善を併せ有するものである。しかるに新楽(即ち鄭衛の俗楽)は、その音楽も舞踏も、感官的であり、魅惑的であり、はなはだしきに至っては淫猥で聴衆と演者との縄張りも取り除かれ、あらゆる意味で無秩序状態が展開される。そしてその感覚的刹那的な音楽の故に演奏後はほとんど印象らしいものは残らない」。

「和」「正」「広」が「調和」「中正」「平静にして悠々迫らざる」と表現されています。それぞれの言葉を非常に的確にとらえていると思います。これに導かれながら、中正楽の精神を探っていきたいと思います。

●調和と中正と平静●

「調和」とは、音と音の調和であり、音と人の調和であり、人と人の調和です。祭典と信仰と楽の調和であり、練習と生活の調和です。あるいは、聖と俗の調和であり、形式・実践と精神・思想の調和です。
どれほど優れた技を受け継ぎ磨いていても、「これが唯一の正しい典楽であり、ほかのやり方は認めない」ということになると、もうすでに、その人の音とほかの人の音の調和は崩れてしまっていますね。形がなければ典楽にならず、形によりかかってしまうと典楽の精神を踏み砕いてしまうのです。

典楽は調和から生まれ、調和を生み出します。高橋正雄先生は、典楽とは、生活全面の調子を整える働きであるとされ、「楽器の音によって人の命、世界の人の生命の調子を整えるような大きなご用をしていただきたい」とおっしゃっています。
「平静」は、音で言えば静謐であり、姿で言えば典雅であり、精神で言えば謙恭清明を示しているでしょう。
典楽は静謐に始まり静謐に終わります。安心の境位が音に象られる時、作礼・想念・詩曲の秩序は静謐を求めるのです。
奏楽の姿に行住坐臥の慎みが現われる時、典雅となります。前教主金光様は、「皆さんが楽人として座している姿、楽器を手にしている姿は、多くの人が直視しているのであって、皆さんを見ただけでおかげを受けたと言う人もいる」とまでおっしゃってくださっています。

謙恭清明な精神の対極にあるものは、自らを卑しめたり高ぶったりする心です。甘木教会初代の安武松太郎先生は、「楽人は動もするとらくじんになり勝ちでありますから、どうぞ何時までも楽人としておかげをいただいて下さい」と諭されました。ご用や信心ができているという心や、してやっているという心、その心が起きてきたり、そう見られたりしないようにしなさい、というご教導でしょう。
「中正」というのは、ほどのよさのことであり、力の入れ所が正しいことを言います。中正でなければ、調和も平静も危うくなります。音楽表現の上で言えば、華美や誇大に走らず内面の練成に重きをおく、中庸の精神を指していると思います。人を喜ばせる音楽に傾きすぎたら、典楽の本質は損なわれてしまうのです。

当時、典楽は尾原楽長の強力な指導力と各地の先生方の熱意のもと、非常な隆盛を見せておりました。国内各地はもとより、中国・韓国にも活動は広がり、教内外のさまざまな場面で人々に喜ばれ称揚されることに、楽人の方々は言い知れぬ感激を味わいました。それは結果として本教が社会に名を広める文化活動ともなりました。しかし、そうした状況の中に、改めて中正の精神が確立されねばならない側面もあったと思われます。

「中正楽」という命名に込められた願いを、私は以上のように受け止めたいと考えてきております。明治大正期の日本では、中国古典は今よりはるかに親しまれておりました。吉備楽の活動を伝える明治期の新聞でも、「千年前に吉備楽が発明されていたら、魏の文候も眠気を催さずにすんだのに」といった記事が、何の注釈もなく出てきます。常識の範囲だったのですね。中正楽ができた頃は、その名を聞くだけで古楽の精神が想起されたのです。
このように、中正楽創始は、独自の音楽様式を生み出すとともに、中国古典の精神と触発力を借りて本教典楽の精神性を確立しようとした営みであった、と言うことができるでしょう。
        (つづく)