巻頭言
文化の花を咲かせよう

                        金光図書館長 金 光 和 道

『天台宗開祖1200年平和祈念会』における道楽(2005/10/21)
典楽と聞いて一番に思い出したのは、明治5年旧12月15日のお知らせである。それは「太鼓は打つに及ばない。17日には門の注連鳥居は、取り片付けよ」というものである。このことから教祖様は、明治5年末まで太鼓を用いて御祈念をされていたと推察できる。しかし外圧のため、太鼓を打っての御祈念を自重し、神社のような注連鳥居は片づけられたのであろう。ちなみにこの日は、いわゆる神前撤去の1ヶ月前のことである。
さらに金光町佐方の神田家の祈念の仕方が思い出される。この家は由緒ある神官で、五軒の下社家を持ち、教祖様のころは、神田筑前が大谷村を担当していたといわれる。その神田家では、直径40センチくらいな太鼓を横にして、細い2本のバチで打ち鳴らしつつ、大祓の詞を抑揚をつけながら唱えて祈念をする。時に早く、時に大きくリズムよく太鼓を打ち鳴らして祈念をこらし、続いて参拝者の名前や願い事が唱えられる。これはかつてよく見た備中神楽(佐方神楽)の太鼓打ちと似ている。このような祈念の仕方は、当時の一般の方法であった。

ところで、教祖様は、ともすると「かたち」にこだわる信心のありかたについて、「こころ」の持ち方が大切であると強調された。しかし、「かたち」をないがしろにしていいというわけではない。どうでなければならないとは言われないが、「かたち」も大切にされている。先に記した太鼓をたたきながらの御祈念を止められたり、壁や柱を目当てに拝むということは、外圧に対抗するためでもあった。決して太鼓の御祈念を神様から禁止されたとか、壁や柱を目当てに拝むのが最適であるというわけではない。

外圧のない今の代に教祖様が生きておられたら、どのような御神前を作られ、どんな祭典を仕えられるであろうか。今日まで「かたち」より「こころ」の大切さが強調されたがゆえに、本教の文化としての「かたち」があまり発展してこなかったのではなかろうか。教祖様は香、灯明、太鼓、つまり匂い、光、音などを御祈念や神様をまつる時に用いられていた。また、「宮」の建築には最高の材料を用い、規模も大谷村の氏神よりはるかに大きいものであった。

種々の面で「こころ」に裏打ちされた「かたち」としての文化が、さらに発展すればよいと思わされる。典楽は、「楽人はややもすれば楽人となりがち」との批判や、典楽、吉備舞存廃の危機もあったと聞く。しかし、当初から「こころ」と「かたち」の両面を取り組んできた典楽は、今や本教の文化として市民権を得たと言えよう。ますます典楽の花が大きく美しく咲くことを期待するが、さらには本教の音楽、建築、絵画など本教芸術が生まれないかと夢はふくらんでくる。