教祖120年生神金光大神大祭に向けて 



 金光教教会部長  松沢光明

 いよいよ教祖120年のお年柄をお迎えする。平年とはまた違う信心の躍動を自らに期待したい。
 教祖様は「神人あいよかけよ」の道を教えてくださった。私は近頃、そのことに素朴な驚きを感じている。
 「あいよかけよ」とは備中地方の古い方言である。教祖様のご理解に、「理屈があっても、みなまで言うな。理屈とくさびは八分詰め。詰め過ぎると紙袋は裂ける。あいよかけよで世は治まるのである」とあることからも分かるように、この言葉は、本来は人と人との間柄に用いられた言葉である。
「くさび」というのは大八車の車輪を固定するのに打つ木片のことをいうのであろう。打ち込みすぎると心棒を割って台無しにしてしまうことになる。理屈も同様で、いくら自分の言い分が正しかったとしても、ほどほどにしないと間柄がこわれてしまう。このご理解からは、見るべきもの、目指すべきところの違いを突きつけられているような感じがする。人間はついつい保身的、自己中心的にものを見がちであるが、双方によい間柄を作ることこそが大切にされているのだ。ついては、一方的な関係では駄目なのである。相手の立場を尊重すること、自らも相手のお世話になっている現実を見ること、ひいては相手のお役に立つような自分になること、そういうことがお互いに求められるわけである。

さて、私が注目するのは、人と人との関係だけでなく、神様との間柄までを「あいよかけよ」だとおっしゃっていることである。
世にはたくさんの立派な神様がおられる。縁結びの神様、子授けの神様、受験の神様、そうした神様にすがる時、そこには人間の側の思いだけがあるのではないか。神様のご都合など関心の他であろう。考えてみれば、人の力をはるかに凌駕する神様が相手であってみれば、むしろその方が自然なことのように思われる。

ところが、教祖金光大神様は、神と人はあいよかけよで立ち行くのだとおっしゃった。神様との間柄を大切にするように教えて下さっているのだ。わが願いだけではなく神様の願いをも受けていこうとする、さらには神様のお役に立っていこうとするところに、双方が立ち行くという道を説いて下さっているのである。人が神様のお役に立つとは、何とも畏れ多いことである。またそれだけにもったいなくも有り難いことではないか。
秋には、教祖120年生神金光大神大祭をお仕えする。「神人あいよかけよ」という新しい世界をお示し下さった天地金乃神様、生神金光大神様のごひれいを現すこととして、ご祭典をお迎えしたい。