舞に託す
金光教北海道教務センター所長
金光教北海深川教会長
星 野  孟



北海道の教会で、祭典が仕えられるとき、楽人の演奏による典楽があるのは希なことでる。大きな記念祭のときに、楽人を招いて行われたことがあったが、どの教会でもできることではない。ようやく、ある教会では、楽人の養成が行われるようになった。しかし、ほとんどの教会は、カセットテープ、CDなどを利用している。これは、北海道に限らないことだと思う。以前からみると、オーディオ機器の進歩で、確かに、それなりの臨場感はあるのだが、やはり楽人の演奏にはかなわない。その場に演奏している楽人がいるというだけで、緊張感があり、昂揚感がある。
ましてや、道内の教会で、奉納の吉備舞があるのは皆無である。数年に一度、本部大祭の団体参拝のときに、遠くから観ることができるだけである。と、これまでは言うことができた。
先年、道内のある教会の記念祭で、間近に吉備舞を観ることができた。もちろん楽人の演奏がある。この教会の息子さんに嫁いでこられた方に、舞の心得があり、おかげで、初めて目前で舞を観ることができたのである。

「ほーっ」、感嘆の声があがる。
しずしずと現れた舞人が、舞う。楽人の奏でる調べにのり、静かにゆったりと、たおやかに流れてゆく舞の姿に、時までもがゆっくりとすぎていく。観る者の眼が手の動きに従い、観る者の息が足の運びに合う。舞が進むにつれ、緊張感でもなく、昂揚感でもない、不思議な感覚になってきた。言葉に表現できない感覚である。しかし、あえて言えば、託すということだろうか。
この感覚は、観るということではなく、託すということだろうか。舞人に何かを託すという気持ちは、観る者にはない。だが、舞の姿に集中させられていくなかで、深いところから一筋の紫煙のようになびいてくる感覚がある。舞人に託すのでない、舞の姿に託すのである。舞が納められ、舞人が下がる。
「ふーっ」、溜息がもれる。

こんな感覚になるのは、いつもあることではない。特別なことかもしれない。託すという感覚があるのなら、託されている感覚もある。
託されている私、その託されているものは何か。
感動、実感が、託されている何かを、きっと教えてくれるに違いない。もともと、私のなかに有るのだから。