奏楽(がく)のこころ
  思いやり

 先日、本屋に行った時のことである。目当ての本を買い、車に乗ったところで、知らないおばさんが軽自動車で駐車場に入ってきた。本屋に一番近い入り口近くに駐車していた私の前で車を止め、あたりをきょろきょろしている。たぶん自分の車を止める場所を探しているのだろう。
 駐車場は混雑しているが空きスペースが無いわけではない。比較的広い駐車場であるから、少し歩くことを厭わなければいくらでも空きはある。でも、件のおばさまは(まあ私も同類ではあるのだが・・・・)本屋に一番近い混雑している入り口付近に車を止め、自分のスペースを探しているのである。
 多少思わせぶりにアクセルをふかしてみても、一向に気づく気配はない。そろそろ「クラクションでも」と思ったところ、私と同じ思いの人がいたのだろう「パッパアーン」とけたたましいクラクションが鳴り渡った。驚いたおばさんであったが、それでもきょろきょろしながら、名残り惜しそうに空いているスペースへと走って行ったのである。
 良くも悪くも個人主義の根は深い。このおばさんも私も含め、人間はまず自分にとっての利益から物事を見つめ行動しがちである。
「しょうがないおばさんやのう。あんなのが増えるから住み難くなるんやのう」そう切り捨てることはたやすいが、「あのおばさん、もしかして足が不自由だったのでは・・・・」と考えると状況は一変する。そんな人に対してクラクションを鳴らすはずはない。車から降りて「ここが空きますから」と言いに行くかもしれない。
 人間が共に生きていくことは、言葉で言えばそんなに難しくない。お互いに思いやれればいいのである。周りの人に対して。そしてまだ見ぬ人々に対して。

 典楽は、他の奏者との関係の中で成り立つ音楽である。常に相手の息使いを聞きながらこちらの息を整えていく。相手との呼吸の中で生まれてきたものがいい音楽なのであり、そこには杓子定規な正論などは存在しない。これは、なにも典楽に限らず音楽とはそういうものかもしれない。
 他者の呼吸の中で自らの息を整えていく。他者の思いを推し量り、自らの思いも寄せ、揺れ動く互いの思いを理解し合おうとすることから、豊かなものが生まれてくるにちがいない。それは典楽の世界に通じるとともに、あいよかけよで立ち行く世界を実現していく基になるものではないだろうか。
 「思いやり」という、今日ではいささか手垢の付き過ぎた言葉を、もう一度手元に引き戻し素直に現していきたい。