巻頭言

「一生が修行」

金光教学院長・金光教墨染教会長 松 岡 道 雄
 お道の教師養成機関である金光教学院においては、今年は男子二十五名、女子十七名の四十二名の学院生が、本部広前の修行生として、日々教主金光様のお取次を頂きつつ、日常の起居一切を信心の稽古として取り組んでいる。カリキュラムの中に、教師としての基礎的素養を培い、人格形成に資することを願って、文化活動を設定し、書道・華道・茶道・典楽の中から一つを選んで、前期(五月〜十一月)の木曜日の午後に実施している。
 典楽は、本部指導員の金光あかり師、岡本庄一師を講師に委嘱し、箏・笙・篳篥・龍笛の楽器から選択して、吉備楽と中正楽の奏法を教えていただいている。昔から、「笙三年、龍笛五年、篳篥七年」といわれるくらい、修得には時間のかかるものである。入学を機会に、初めて楽器に触れる初心者も少なくない。
 しかし在学中、直接ご指導を頂けるのは、十五回くらいしか時間が取れないのに、出せなかった音が出せるようになった喜び、楽しみを味わいながら、短期間にもかかわらず、経験年数以上の上達を見せている。
 学院の春秋の霊・大祭では、緊張の中にも神様へのお供えとして、真心のこもった合奏をしている姿を見るにつけ、先生方のご苦労こもる熱心なご指導と、充実した稽古の賜と喜ばしてもらっている。
 教祖様も「覚書」に、政府の宗教改革を受け、明治五年十二月十五日に「たいこ打つにおよばず」と記しておられることは、いつ頃からか太鼓を打たれて、御祈念を仕えられていたことが拝される。
 初代楽長の尾原音人師は「余は楽を以て金光教を広めん」と願われ、「吉備楽、中正楽を以て神人の和楽をはかり、兼て社会風教の上にいささかにても益せんことを志すのみ」との願いで、金光教独自の中正楽を創作なさって、「神人の道」を伝え広めることを志された。
 典楽は祭典の中身として、信心そのものであり、一体不離のものである。音楽は人の心に安らぎや希望・勇気・元気を与えてくれる働きがあり、祭典を引きしめ、引き立ててくれる大きな役目を担ってくださっている。
 典楽は、神様へのお供えであるとのことから、真心のこもった少しでもよりよいものをお供えさせていただこうと、皆さんも日々の稽古に努力なさり、楽技や技量の向上に努め、全体の調子が調和するために、一打、一吹、一弾に心を込めて稽古に精進なされていることと思う。
 芸能・スポーツの世界でも、心・技・体の一体調和が求められるように、典楽も指導者から楽技の伝授を受け、奏法を修得するように、学院での日々の信心の稽古、修行も同じことである。
 「習ふとは我流すて去る稽古ぞと しみじみ思ふ手習ひしつつ」 「面白くなるまでけいこをつづけてゆく その辛抱こそたいせつなりと」 四代金光様のお歌にあるように、信心も典楽も一生が修行であり、稽古である。
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