巻頭言
無言の教導
                  金光教総務部長・金光教城北教会長 福 田   浩

吉備舞の夕べ「春の調」(平成23年4月2日)
 私には、心にずっと残っているある一つの光景があります。それは、私が金光教教師になる遙か以前のことでしたが、ある年の大祭のことです。それまでも小さい時から毎年春秋の大祭には必ずお広前には出ていたのですが、いつもは心にも残っていなかったのです。それは奉幣行事の時でした。
奏楽が始まり奉幣役の先生が席を立たれ、奉幣行事が始まりました。その奉幣役の先生の動きと奏楽がピタッと一つになって、一幅の名画を見ているような感動を覚えたのです。

 私はそれまでも現在も楽のことは何も知りません。祭典における楽の役割は、祭典の進行の補助くらいにしか思っていませんでしたが、その光景を見て感動をしてからは、その考えが大きく変わりました。それは、祭典にとって楽は必要不可欠のものであるということが分かったのです。奏楽と祭典が一つに溶けあった時、神様がお喜びくださるお供えとなり、参拝者にとっても神様のお徳を称える荘厳な祭典となるのです。それが人々に大きな感動を与えることになるのだと考えるようになったのです。

 金光教学院在学中に、祭式の授業で祭典は「無言の教導」であると習いました。お説教やお結界での御理解などが「有言の教導」であるとするならば、その中に祭詞や拝詞など有言の部分を含むにせよ、祭典はその形を持って神様のお徳を称え、氏子としてそのおかげの中に生かされているお礼を申す、まさに「無言の教導」と申せると思います。そして、祭典という形と楽が一体になった時、神様と私たち人間の結びつきがより強く実感されるのだと思えるのです。
 そのようなご祭典が仕えられるために大切なことは、祭員と楽人の心が一つになることだと思います。祭員が自分の動作や所作だけに気を取られ、奏楽に思いが及ばなかったり、楽人が自らの演奏だけに集中し、祭員の動きに心を配る余裕がなければ、その祭典は人々に感動を与えるものにはなりません。祭員も楽人も共に相手のことを思い、相手の動きに合わせようとするところに祭典の一体感が生まれ、神様も喜ばれ、人々も感動を覚える祭典のご奉仕ができるのだと思います。

 最近は、ご祭典の中で献饌や奉幣行事が行われることが少なくなってきたのは寂しい気がしますが、祭員と楽人が心を一つにして参拝者に感動を覚えてもらえるような祭典を仕えさせて頂きたいものです。