吉備楽

吉備楽の歴史



吉備楽創始者
岸本芳秀
PHOTO:岸本芳武
吉備楽2代家元
岸本芳武
吉備楽はその名のとおり、吉備の国岡山で明治の初頭に生まれた音楽です。
 初代の岡山藩守池田光政は、全国でも有名な藩塾「閑谷学校」や「岡山藩学校」を興すなど、藩の文化奨励に力を尽くした人として知られていますが、神職の教育の中に雅楽の稽古を奨励し、領内諸社の祭祀に奏楽を行うとともに、自らも笙を好んで演奏したということが伝えられています。
 現在ではあまり知られていませんが、廃藩置県が行われるまでの岡山は、加賀の能楽と並び称されるほど雅楽が隆盛であったといわれ、優れた奏者を多数輩出していました。廃藩置県によって、岡山藩の雅楽はその伝統を閉じることになりましたが、培われてきた土壌は残りました。そして今までは藩の制度として位置づけられていた雅楽が、旧来のさまざまな制約から解き放たれることにより、雅楽の伝統を生かしつつも明治という新しい時代にふさわしい音楽を創出しようとする気運が高まってきました。当然、そこには明治に入ってからの洋楽流入も大きな役割を果たしたことはいうまでもありませんが、そのような中で生まれたのが「吉備楽」です。

創始者は、岸本芳秀といい、技量に傑出した代々藩に奉仕する楽人です。彼は、雅楽をベースに、倭舞や京舞の要素も取り入れるなどして、その大衆化を考えました。
 雅楽は、平安時代以前から宮廷音楽として各地で演奏されていましたが、一般大衆にはなじみが少なく、その演奏もわかりにくいという面がありました。それを、家庭で気軽に演奏でき、かつ親しみやすい音楽として作られたものです。
 誕生当初は、神社等の神事に使用されていましたが、やがてさまざまな場で演奏されることとなり、舞も振り付けられることにより、岡山地方を中心にして民間へも広がっていきました。また、誕生後、比較的早い時期に、岡山で生まれた宗教である「黒住教」「金光教」の両教団の祭典楽として採用されました。

また、割と庶民に普及していた琴のみで演奏できることもあり、当時の女性の間では、大変な人気を得たということです。
 明治から大正にかけての時期は、かなり盛んに演奏されていたということですが、しだいに衰え、現在では、「黒住教」「金光教」の両教団の中で伝承されているのみとなっているようです。

教祖50年祭祭典後の合同演奏会(昭和8年)

岡山後楽園能舞台での上覧演奏
「桜井駅」(大正15年5月)