金光教と吉備楽


PHOTO:佐藤範雄
金光教芸備教会長
 佐藤範雄
金光教の祭典に、はじめて吉備楽によって奏楽奉仕がなされたのは、明治23年(1890)10月の教祖大祭からです。

この年の4月に参拝した豊原教会(岡山県岡山市)初代教会長の小林岩松に、佐藤範雄(教祖直信・芸備教会初代教会長)は、「何とこの道にも楽があればよいがのう。楽は楽でも吉備楽の楽ぞ」と言われました。
すると小林は、「やり手がなければ私がやらせて頂きます」といわれ、すぐに楽人を募り、吉備楽の宗家岸本芳秀師の高弟数名を頼んで毎日猛練習を続けました。そして、10月の教祖大祭に初めて吉備楽をもって奏楽がなされたのです。

金光教に本格的に吉備楽が広まったのは、初代楽長尾原音人(1873〜1941)が奉仕に加わることになってからです。
 尾原は、明治19年14歳の時、岡山市東山にある玉井宮の祭典で吉備楽を聞いてすっかり心を打たれ、その翌日友人と共に、岸本の高弟御船島子のもとに入門して吉備楽の手ほどきを受けました。
 創始者岸本芳秀は、明治23年に亡くなりましたが、子息芳武が二代家元を継承しました。尾原音人は、5年後に芳武の直門として本格的に修業に入ることとなりました。
先の小林岩松は、本部での奏楽御用を辞して取次に専念することになり、明治26年頃から尾原音人を中心として本部広前の奏楽奉仕がなされることになったのです。一方で明治28年には、家元の勧めで上京し、宮内省の伶人について雅楽の勉強をしました。
 そして、本教が別派独立を果たした翌年の明治34年、尾原師は新しく設けられた楽部の楽長として任命され、典楽は教団の内部組織となり、教団活動の一部として育成、運営されていくことになりました。
 この年には、大阪教会において尾原楽長を招いて吉備楽の講習会が開かれ、これがきっかけとなって大阪の各教会で楽による御用を志す信奉者が一挙に増加しました。また、九州地方でも、小倉教会初代教会長桂松平師の奨励によって吉備楽を始める教会が増えるなど、吉備楽は全国的に広がっていきました。
PHOTO:尾原音人
金光教初代楽長
尾原 音人