豊さの中で



御用って何だろう。全く初歩的な、自分自身が当然わかっている(と思っている)事柄を、今一度問い直してみたとき、浮かぶイメージ・言葉があまりにも貧相なのに愕然とした。

本来我々が、心に止めておかねばならぬもの、常に問い続けていかなければならぬものが、あまりにも平穏に平坦に通り過ぎていく時間の中に、埋もれてしまいつつある感がある。これは気をつけなければいけないと自戒しながら、ふと、こんなことを思うのは私だけなのだろうかと思った。
もう一度、御用とは何だろう。
 

世は好景気。黒字大国日本は、ついにアメリカを追い越して、世界一の金持ちになってしまった。より良く生きたいという願いに基づいての利益追及。利益は利益を生み、賃金も上がる。生活水準は戦前とは較べようもなく高くなった。反面、「幸せですか?」の問いに、どれほどの人がYESと答えられるのだろうか。
裕福イコール幸福によって敷かれた人生は、別の次元の「不幸せ」を増殖しているようだ。



仕事は、必ずそれに見合う対価が与えられる。それは、お金であったり権威であったり様々ではあるが、ギブアンドテイクの世界にはちがいない。そして、与えられた対価をもって生きがいを見出し、仕事に励む。
それに対して、御用は相反するもののようである。御用は神様の側にあり、することに対して見返りを求めない。無償の行為なのだ。
笛を吹く。何のために?。「おかげがいただけるから」となれば、仕事の論理となんら変わりがないではないか。仕事は「する」ものならば、御用はやはり「させていただく」ものなのだろう。

見返りを求めない・その生きかたからおかげは生まれるのだと思う。それこそ船にも車にも積めぬほどのものが。
世の中、なかなか甘くはないが、できれば仕事も御用も神様を軸とした、同心円になってほしいと思う。
   
1988年7月