和而不同(わじふどう)



アラブとイスラエルが和平への道を歩みはじめている。歴史的な軋轢による長年の衝突、宗教の違い等を乗り越え、お互いが平和という方向を目指す。言葉で語ることはたやすいが、そこにはさまざまな不満やジレンマを抱えていることも事実であろう。だからこそ、その歩みはまことに尊く、重たい。

典楽の世界においても、洋楽との関わりが説かれて久しい。なにもアラブ・イスラエルになぞらえる訳ではないが、この二つの音楽の間にも、見方によると致命的な数々の壁が横たわっている。まず、音程の問題。周知のように、洋楽では基音のAの音を440ヘルツと定めているが、典楽(に限らず、雅楽等も含めて)では、基音の黄鏡は430ヘルツである。たかだか10ヘルツの違いと言われるかも知れないが、これが致命的なのだ。人間の耳は、音程それぞれを聞き当てることには鈍感だが、その二つを聞き較べることには、すばらしく敏感である。わずか何ヘルツの違いさえも聞き較べてしまう。ただ、どの程度違っているかが判るわけではなく、違っていることが判るだけではあるのだが・・・・・。どんなものでも較べることが好きな人間としては、まさに人間らしい器官ではある。
 その他、問題は探せばきりがないが、一番の問題はやはり、それぞれが継承し培ってきた音楽に対する情熱や思い入れ、いわば「誇り」の問題ではないだろうか。
****     ****
ある一定のことに打ち込み、その中で喜怒哀楽を経験してきた人間にとって、その経験は大きな糧となり、やがては人生を推し量るものさしにもなっていく。それは苦労して得た信念と誇りで支えられているため、たいへん堅固である。
すばらしいことであるのだが、一歩間違うと、ものさしに合わぬ事柄は総て否定してしまうことにつながりかねない。強靱なものさしを持ったがゆえに、目の前からものさしにあわぬものを切り捨て、あるいは責めの道具にして自らの世界を小さくしてしまうのだ。これは、音楽の世界に限らず、信心生活においてもいえることでもあるのだと思う。

誇りは誇りとして持ちつつ、柔軟に物事を見ていく目と、考える頭と、行動する手足が人間には必要なのである。
「和して同せず」のことわざのとおり、典楽と洋楽の融合については、信念や誇りはあくまでも大切にしながら、その可能性はどこまでも探っていきたいと願う。妥協の産物としてではなく、お互いを尊重しながら生まれてくるものがあれば、それは典楽ではなく、まして洋楽コーラスでもない、新たな金光教文化の出現なのだ。