月夜の蟹(つきよのかに)



「三匹 千円!」と書かれた札の下に、大きな蟹が並んでいた。
思わず買おうとした私を同僚が止めた。「あれは、月夜の蟹だから。」



蟹は、月夜には月光を恐れ、食物を漁らなくなるといわれるところから、身の痩せたものを「月夜の蟹」と言うのだそうだが、もうひとつ、蟹は甲殻類なので、成長するためには脱皮しなければならない。一年に二〜四回程度脱皮を繰り返し、脱皮と脱皮の間は成長しない。脱皮したてで、まだ殻ばかりが大きく、身は締らない前の小さいままの蟹の事も言うらしい。なぜ、「月夜」なのかはよくわからない。たぶん脱皮の時期が、潮の干満の関係で月夜に多いのだろう。

転じて、外見ばかり大きく立派で、中身がないことによく例えられる言葉でもある。
僕も「月夜の蟹」の部類だろう。外面をとかく飾りたがる。といって、中身はそれについていかない。それを知りつつなお飾る。蟹のようなきれいな殻(外面)を持たない分だけ、よけいにしまつが悪い。



典楽奉仕を、神様の御用として捉らえるのは当たり前のことだが、もうひとつ、典楽は芸能であるという側面も持っている。芸能音楽であるからには、上手でなければ・・・、という視点も当然必要なのだ。
信仰実践として、典楽の御用をさせて頂く。有難く貴いことではあるが、ひとつ間違えば、楽の出来、不出来はともかく、御用をさせてもらうことだけでも有難いという世界に入ってしまう。また、楽技の研鑚に力を入れすぎれば、そのあまり足が教会から遠のいてしまうことにもなりかねない。どちらも、典楽の本質が持つ二面性から考えれば、おかしなことになってしまう。

楽の技術・理論、また信心。どれも簡単に修得できるものではないが、それ以上に、その兼ね合い・混ぜ具合。これが一番難しい。
どちらも、程良く混ざり合っていなければ、たとえ楽技に秀でていても、信心が篤くても、典楽の世界では、「三匹 一千円!」の蟹と同じような気がするのだ。