時の重なり








 俵屋宗達の「風神雷神図」を観てきた。
 臨済宗建仁寺派の総本山建仁寺が所蔵する、国宝にも指定されているあの有名な屏風絵である。
 幼い頃、図集に掲載されていたこの絵を見て、一気に心を奪われたのを思い出す。ユーモラスな風貌、今にも動き出しそうな躍動感と迫力。上手とか下手というレベルを超えたところで「すげー絵」だな、と子供心に思った。その思いは消えることなく、いつしか日本の絵画と言えば、この絵を一番にイメージするくらい私の中では、日本を代表する絵になっている。 そんな絵が、岡山にやってきた。これは、ぜったい観に行かねば。

 その絵は、思っていた以上に大きかった。そして痛んでいた−。
 それもそうだ。もう描かれて400年以上の時間が経っているのだから。緑や赤の絵の具は暗くくすみ、銀で描かれた箇所は黒く変色している。背景に貼られている金箔は本来変色しないはずなのだが、含まれていた不純物の関係だろうか、シミや色合いの変化が見てとれる。完成当初は、豪華壮麗な屏風だったのだろうとつくづく思う。
 ならば、そうした変色は絵に悪い影響を与えているのかと問われれば、決してそんなことはない。むしろ作品全体に深みを与え、風神と雷神にさらなる躍動感を与え、その間の空間にある痛いくらいの緊張感をさらに増幅しているように思えるのだ。
 思えば、今我々が観ている「風神雷神図」を作者である宗達は観てはいない。完成当時の絵は400年の時の経過と変化を纏って現在に届けられているのである。いわば今の絵は、宗達と時間との合作といったところか。何かの本で、「時間とは物事の変化の量」と書かれていたが、まさに時間は物事を変化させる。そして我々は、それを受け入れるしかないのである。

 今、デジタル録音が急速に普及し、誰もが手軽に行えるようになってきた。このしろもの、たとえばCDなどの媒体として作成されれば、それは劣化すなわち時間による物事の変化があらわれるが、その音源となるデータは、メンテナンスさえちゃんとすれば永久に劣化しない、つまり時の干渉を受けないのだ。
 これって、どうなのだろう? 今典楽のCDは2枚制作されている。CDはまあいいとして、その音源はデータとして我がPCの中に格納されているのだ。これは、メンテナンスさえすれば100年先も全く変わらずに残っているはずだ。宗達の絵のように、くすみや色合いの変化もなく深みも備わらずに・・・・。
 典楽がこの世に誕生して、130年。初代楽長から始まった音楽は、伝えられた人のこだわりや嗜好、信仰的な精神などを含み込みながら、徐々に変化してきたことは間違いない。仮に、現在のものが記録にとどまり未来にそのまま残せたとしても、それはもはや初代楽長の典楽ではなく、時間との合作であることに思い至る。そして録音は、典楽の定版作成にはならないことに。なぜならば、初代楽長の典楽にはもう戻れないからだ。
 先人がもし今の時代によみがえることが可能ならば、宗達は今の「風神雷神図」を見て何と言うだろうか。初代楽長は、今の典楽を聞いて何と言うだろうか。我が絵、我が音楽ではないと言うのだろうか。それとも、戸惑いつつちょっとはにかんで、「なかなかいいじゃん」と言うのだろうか。
 後者の思いをもってもらえるように、精進していきたい。