天上の音楽



男は四十五歳、現在金融機関の課長を勤めている。部下に好かれ上司の信頼も厚く、出世は順調である。家族は三人。若い頃大恋愛の末結ばれた妻と、一男一女。はたから見れば、じつに微笑ましい平和な家庭である。

父親の信心を譲り受けて、男は幼少の頃から教会に参拝し、先生のお取次を受けて育った。当然、信心の何たるかは彼なりに持ち得てはいるが、その中に父親のような駆り立てられるごとき情熱はない。男もそのことに気づいてはいるが、これもまた平和である象徴としてのおかげなのだと思っていた。

教会では、若い頃手ほどきを受けた龍笛で、祭典時には典楽の御用を頂いている。近年、仕事の関係で多忙となり、稽古もままならず、月例祭の御用は滞りがちであるが、大祭当日には欠かさず御用してきている。



大祭当日、今までのごとく男は多くの仕事を抱えたまま会社を休み、教会へと足を運んだ。楽人は彼を除き、みな箏である。彼の存在は大きい。
男は稽古もそこそこに祭典に臨んだ。稽古不足ゆえに満足な音色など出ようはずもない。箏とのタイミングも拍子もいびつである。しかし、大祭は滞りなく終わった。多忙を極め、稽古も出来かねる男が奏した楽にも、神様はやさしく微笑むように麗しく終わった。 男は思った。稽古出来なかったわりには、今日の楽は「まあまあ」であったと・・・。



教祖直信、西六金照明神高橋富枝師の伝えに、
「天にも上る心持ちで事に当たれば、神はその後押しをする」
との言葉がある。

典楽の出来、不出来を、技術のみで推し量ることは無意味だと思う。要は、神様の御用としての奏楽にどれほどの実意が尽くせたか、尽くすことのできた喜びをもって、「天にも上る」心持ちで御用に当たることができたか、なのだ。

その意味で、本今日の典楽は、人に聞かせる音楽ではない。神に対する自らの思いを音という形で表現する儀式なのではないか、と。そこには妥協は許されない。「まあまあ」という感触ではすまない、ぎりぎりのところで、神様と対峙するのである。

満ちた思いは、そのまま喜びへと昇華される。満たされぬ思いもまた、神の後押しを得られるだろう。
ここに至ってはじめて典楽は、人への音楽ではない、「天上の音楽」となるのだ。