鍛錬


 典楽に限らず、邦楽全般の稽古は、はたから見れば極めて単調に見えるようだ。
 洋楽、たとえばピアノであれば、バイエル、チェルニー、ショパンの練習曲といったように、稽古する者の技量に応じて、より高度になっていく。一方典楽では、初心者も指導する立場の者も、基本は中正楽であれば「第一」であり、金典であれば「松吹風」や「天地」であり、技量に応じた曲というものはない。そして、その曲を初心者も指導者も同じように繰り返し稽古するのだ。
 十回稽古した人と、千回稽古した人の差は、微妙な間や調子のつけ方さらには音の響きにまで歴然としてあらわれるとともに、演奏自体の品格の差ともなるという。それは、典楽の稽古が技術的な面とともに精神的な面を育むからであろう。もっともこれは、広く邦楽全般にも言えることである。
邦楽という音楽は、「術」ではなく「道」なのだ。

 剣の技術は、それを極めようとしたとき、自らの内面を見つめ、精神的な問いをも求めることとなり、やがて剣道となった。柔道、弓道、相撲道、野球道、茶道、花道、どれも技術とともに精神的な面を重要視する。単調な繰り返しの中に技術と精神を磨くのである。
 剣豪宮本武蔵は、自著『五輪書』の中で鍛錬という言葉で稽古を語っている。
「千日の稽古をもって『鍛』とし、万日の稽古をもって『錬』とする」
 武蔵は、千回も万回も剣を振ったのだろう。その単調な繰り返しの中で、剣とは何かを問い求め、精神的な幅に裏付けられた技術であればこそ、日本一の剣豪となりえたのだ。典楽も、単に稽古するのでなく、このようなあり方で臨みたいものである。
 さて、すると典楽は「典楽道」となるのか?実は典楽にはすでに「道」が備わっているのである。
生神金光大神御取次という道が。

2007.7.1