主人公








 我が家に猫がやってきた。
 きっかけは、孫の通う幼稚園に迷い込んだ一匹の子猫である。園児をひっかいたり噛んだりしてはトラブルの元になると考えた孫の親である娘は、幼稚園から連れ出すことに。さりとて、別の場所に捨て去ることもできず、やむなく我が家の客猫となった次第。予防注射に連れて行った犬猫病院では、事の次第を話すと、受付のおばちゃんに「ありがとね。ありがとね。」と何度もお礼を言われたそうである。
 さて、この猫が悪い悪い。ガリガリに痩せ、緩慢な動きしかできなかった当初の頃からは想像できぬくらい、家の中を走り回り、屏風を破り、障子を破り、壁紙を剥がし、畳に爪を立て、家族にも爪を立て・・・・。小猫一匹に家族は振り回されているようだ。我が家族の主人公の座へ、一気に登りつめてしまった感がある。それまで主人公であった孫は、そのことを知ってか知らでか、可愛がりながらも時々けっ飛ばしたりしている。

 以前、だまされて?コーラスの活動に参加していたことがある。それはそれで楽しかったのだが、その中で一番印象に残っているのは、歌っている時に他の団員の方々と音程や抑揚がぴったりと合ったとき、自分の声が聞こえなくなってしまうということだった。しっかりと歌っているのもかかわらず自分の声は消えて、別の大きな響きのみが聞こえる。そう、みんなの声が融合して、別の大きな声となっているような。まさに快感であった。その時思ったものである。「合唱って、主人公は要らないんだ」
 たぶん上手な方々は、自らの声量や抑揚を調整し、みんなが融合できる点をずっと探りながら歌っているのだろう。そんな中に、素人の私が入ってさえ、他の人たちの協力により融合点は見いだされ、私にも合唱の醍醐味が知らされることになった。合唱とは、まず自分の声を出す前に、他の人の声を聞くことが大切だと思ったものである。

 合唱に限らず、音楽はすべからく音を制御し協和を見いだす点において、共通である(べきである)。典楽も例外ではない。典楽の演奏に携わる人みなが、それぞれの音を制御しながら、一つの音楽を作り上げていくものなのだ。笙も篳篥も龍笛も、各楽器の足し算としての響きではなく、篳篥ならば、複数の篳篥奏者が融合して一本の大きな篳篥の音を響かせるように各人が制御するのである。
 自らの音を磨くとともに、主人公にはならず、他の楽器を聞きその中で別の大きな響きを作り上げようとする意欲と、その音を思い描く想像力とを持ちたい。