奏楽の神様(がくのかみさま)



稽古事の始めは、誰でもうまくいかないものである。やっていてもちっとも楽しくない。それが一生懸命稽古に励むうちに、慣れと眠っていた能力が目覚めてくるとともに、少しずつおもしろくなってくるものなのだろう。

ただ、人間とはおかしなもので、一定期間が過ぎると、かなり上達したように思うようだ。確かに、それなりに上達もしているのだが、意識としては、もうそれを極めたかのような気持ちである。客観的にみると中途半端な自分であるはずが、一生懸命なだけにどの地点に自分が立っているのかわからなくなってしまう。つまり、周りが見えないのだ。


山に登ることを考えてみよう。登る山の前に立つ。山全体の形、その大きさが自分の視野におさまる。しかし、登るためにいったん山に入れば、その形、大きさは木々に遮られ見えなくなってしまう。そういうとき、人間のイメージは、人が楽になる方向に動くようで、登るという行為自体が肉体的な辛さを伴うから、登る前に見た山の高さはいつのまにか低く、大きさも少しづつ小さく登り易くイメージされていくらしい。

考えてみれば、稽古事も同じであり、見ているだけでは登れないが、登ろうとするものの大きさは、客観的に理解することができる。また登ろうとすれば、確実にその頂に近づくことはできるが、四分のその時々の位置を確認することは難しい。ここに、稽古事を進めていく上での危うさがあるといえるだろう。



「天狗になる」という。自分の立っている位置を客観的に見つめることができない、あるいは見失っている人のことをいうのだろう。しかしこれは、我が力のみで生きていこうとする人にとっては避けられないことなのだ。そういう人間すべてを、神様はなんとか助けたいと思っているのである。

ただ、森の中で自らの道を見失い、限られた視野で捉らえられるもののみを「すべて」として生きる人間には、その思いは届きにくいことは確かである。
だから、「自分は誰よりも上手になった」と思ったとき、もう一つの自らの内につぶやく言葉に耳を傾けてみよう。「はたしてそうかな?」。自分の身に負に働こうとする内なる言葉こそ、神様の言葉なのであろう。



神様は、自らを離れたところに客観的に存在するのではないと、この頃思うようになった。我々が、問題をきっかけにして真に神様を信じようとしたとき、すがろうとしたときに、初めて我々の心の中に実体として生まれてくるものではないかと。起こってくる問題に応じて、様々に形を変え、方法を変えて、内に生まれて下さっているような気がするのだ。

すがってみよう、そして信じよう。我々の思いを超えたところで、厳しく導いてくれるものが、内に生まれてくるはずである。そして、それが生まれた人こそ、「天狗」になることなく、自分の立ち所を押さえ、いつまでも精進していける人である。
それを、「奏楽の神様」と名付けたい。
1993年7月