三代目の奏楽



「これはなあ、おじいちゃんが使っていた袴や。そしてこの羽織のひもは、初めての奏楽の時、親父が買ってくれたものや。この白衣も、典楽をするために家内が縫ってくれた。そして・・・・」。

奏楽奉仕を前にしてのひととき、カバンに入っている着物などを出しながら、男はその一つ一つを手にとって私に話してくれた。さしずめ、カバンの中身にはすべて、なにがしかの思い出があるらしい。見れば、おじいちゃんからもらったという袴は、長年使ってきたからであろう、折のところや裾(すそ)がすり切れ、ところどころ布をあてて補修している。羽織のひもも、かつて父親からもらったということを物語るように、黄ばんでいる。白衣も、羽織も、白帯も、足袋も、なにかいわくありげであった。

たぶん、私が見たものは、ボロな袴と、黄ばんだきたない羽織のひもと、ふつうの白衣等々であったにちがいない。しかし、このような話を聞くと不思議なもので、その一つひとつが、軽くはなく輝いて見えた。そして、なぜかしら彼の一部のように思えたのである。
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たくさんの「モノ」が造られ、たくさんの「モノ」が捨てられる今の社会。「大量生産大量消費」という言葉に象徴される経済システムのもとで、人間は現在(いま)を駆け抜けている。汚くなったから、とか、新しいものができたから、といって捨てられ、そこに新しくきれいな「モノ」が代わっても、たぶん同じ繰り返しなのだろう。「モノ」はいつまでたっても「モノ」でしかない。

しかし、この男の「モノ」は違う。彼自身やまわりの人々のさまざまな思い出に取り巻かれているため、それはもはや「モノ」ではなく、彼の体の一部なのだ。
豊かになりすぎた我々の生活の中で、一番変わってしまったのは、「モノ」に対する執着ではなく、「もったいない」という意識でもない、「モノ」に自分や他の人たちの思いを取り結ぶ営みなのではないだろうか。
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聞けば、この男の楽器も師匠から譲り受けたものであるという。たくさんの思い出と、取り巻く人々の願いの中で、この男の奏楽がなされていることに、思いがおよぶ。
男は、師匠から譲られた龍笛をもち、祖父の袴、父親の羽織のひも、奥様の白衣、その他たくさんの思いのつまったものを身にまとい、奏楽に臨む。そのときの男は、たぶん一人ではないのだろう。師匠と、祖父、父親、奥様、その他たくさんの彼を支える人たちとともに、奏楽に臨むのである。

1999年1月(典楽会だより)