ぬかずく


近年椅子式の教会が増えている中で、その教会は今でも座礼で祭典を行っている。今後も椅子式にする予定はないという。広前には、両脇のみ椅子が並べられている。足の具合の悪い方への配慮なのだろう。それ以外は、祭員も参拝者も奏楽員も畳の上に膝を折り祭典に臨むのである。

祭事も昔ながらで、開扉、献饌、奉幣、など本部広前では省略されている行事が行われる。したがって、祭典の時間も長くなる。1時間以上、正座で参拝するのは少々つらい。
よって祭典が進行していくにしたがい、だんだんと椅子が恋しくなる。あぐらをかけばいいのだろうが、神様に向かい祭典に参拝するという場で、はたしてそれでいいのかという自らへの問いかけもあって、なかなかくずすことができず、横にある椅子を羨ましげに見ながらもシビレとイタミを辛抱することになる。

そもそも、正座とは正しく座ると書くように、日本では一番改まった場での座り方である。その歴史は、室町時代に茶道から始まったという説と中国から入ってきたという説があるらしい。そして、正座が一般的に正しい座り方となるのは、明治時代になってからだそうだ。
それがこんにち、椅子の文化が徐々に浸透してきた中で、私たちの暮らしは大きく変化してきた。それに伴い、祈るという形、参拝するという形も、何某か変化しつつあるようだ。

神様に向かおうとする心が形となり、もっとも改まった座り方である正座となったであろうことは想像に難くない。これは、どの宗派も同じであろう。また、キリスト教のチャペルでも、一見椅子式のようでありながら、足を置くスペースの先には、膝を折って祈るための低い膝置き台が付けられている。

 昔から「心と形は車の両輪のごとし」と言われている。いくら心を込めたとしても、某かの形に表れなければなにも伝わらないし、整った形の中に心が見えない場合も、信頼をおけようはずはない。
 神様に向かう姿勢について、正座しようと椅子に座ろうと、心が込められていることが大切なのは言うまでもない。

ただ、本教に限らず、太古の昔から神を拝む際に、ぬかずき、さらには額を大地にすりつけひれ伏して拝んできたのは、そこに神に対する圧倒的な畏怖と感謝の念があったからではないのか。そのような心情を現す形としてぬかずき、ひれ伏していたとすれば、逆に、ぬかずきひれ伏すことで、神に対する圧倒的な畏怖と感謝の念を心に描くことができるのではないか。そう思えるのである。

あわただしく忙しく過ぎていく日々の生活の中で、神に向かう、神を頂くと言いながら、言葉だけが空回りし、その中に込められるべき心の空虚さに気づき、時々ハッとすることがある。何がおかげであるのか、何が難儀であるのか、それすらも干涸らびていく感性ゆえに、分からなくなってしまう時がある。

畳に額をすりつけて拝んでこられた先人たちの心を自らに取り戻すために、ここはひとつ正座を通して、祭典に臨み続けようと、そろそろしびれ始めた左足をさすりながら、意を固めたのであった。
(2005.10.17)