N氏の憂鬱


「まったく最近の若い者は、ブツブツ・・・。」古参のN氏は、憂鬱そうに誰に言うのでもなく呟く。いつものことではあるが、ただ「おっと、また始まったか。」の一言でかたづけることのできないものがあって、私にとっては、今一番耳の痛い言葉のひとつになっている。
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 一昔ほど前、楽人の世界では、先輩後輩の関係が非常に厳しかったという。先輩は口やかましく、後輩は先輩の一挙手一投足に心を砕き、息をするのも気をつかうようなピリピリした緊張感のなかで大祭御用が進められていたと聞く。また稽古は、対照的におおざっぱなものだったらしく、「見て覚えろ」の調子で、細かな技術は教えてくれない。したがって、上手になるには先輩の技を見て盗む(覚える)以外にはなかったそうだ。
 たぶん後輩は、先輩の吹く笛を、あるときは全身を耳にして聞き、またあるときは目にして観察し、全身を手にして稽古したのだろう。そこには、伝統芸能と呼ばれるものに共通する、昔ながらの「師匠と弟子」の関係が脈々と息づいていたに違いない。
 現在、事情はかなり違ってきた。なかなか教えてもらえなかった昔と違い、その意思さえあれば、何でも教えてもらえる。それも紙に書いた説明つきである。解説書なんてのも出ているし、譜本も揃っている。かゆいところに手が届くような、実意丁寧楽教導ぶりである。
 では、N氏は何が不満なのだろうか。苦労して身につけた楽技を、簡単に教えてしまうことへのこだわりなのか。それとも、そうやって親切に教えてもらうことを、当たり前と思っている世代への苛立ちなのか。
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 昔のやり方が良いという者はいないだろう。N氏とて例外ではない。しかし、分りやすさと居心地の良さとを引き換えに、本来伝統として過去から未来を貫いて伝えられていくべき大切な何かを、置き忘れていきつつある現在ではないのだろうか。
 ある人は「心構え」といい。また「礼儀」、「配慮」という。しかし、かつては肌で感じとっていたに違いない何か、言葉では表し尽くせない大切な何かがあったはずなのだ。 伝統を切り捨てることは、ある意味では容易い。振返らねばよいだけである。だが、一見堅苦しく無意味そうな中にも、キラリと光るものはいくらでも隠されているのだ。それを見分ける英知を養いたいものである。
 N氏は、口やかましい先輩になれなかったのだろう。憂鬱そうな顔はこれからも続きそうである。

1991年1月 典楽会だより