ナイスキャッチ

小学生になるかならないかくらいの子どもたちが、キャッチボールをしている。
まだ小さいがゆえに、投げる方向はなかなか定まらず、ボールはあっちへ行き、こっちに行き。
ただ、どのようなボールであっても、捕球できた時、投げた相手は決まって「ナイスキャッチ」と声をかけている。イージーボールであろうが、本来の「ナイスキャッチ」であろうが捕球の際にはお互いに「ナイスキャッチ」と。

本来は、難しいボールを上手く捕球した人に対して送られる賞賛の言葉である。技術も未熟な小さな子どもたちにとって、ボールを捕るということ自体が大変なことだから言っているのかも知れないが、もうひとつその上に「ぼくのボールを捕ってくれてありがとう」という投げる側の感謝の気持ちも込められているのではないかということに思い至る。
いつしか、目の前で行われていた子どもたちのキャッチボールは、「ナイスキャッチ」という言葉をボールに込めての、感謝のやりとりのように見えてしまったのである。

投げられたボールを普通に捕り、投げる。ごく当たり前のことである。だが小さな子どもたちのキャッチボールを見て気づくのだ。実はそれは、はじめから当たり前のこととしてあったのではなく、小さな時から小さな稽古を積み重ねてきた上での当たり前であることに。
四代金光様が「ここまでは出来たとよろこぶべきことを これしか出来ぬといひてなげくか」とのお歌で描かれたのは、当たり前であることを感謝することなく、常に当たり前でない幸せを追い求める、今の人間の姿なのではないだろうか。

子どもたちは、やがて上手に捕球でき、上手に投げることができるようになるのだろう。その他にもさまざまな可能性が開花し、色々なことができるようになるのだろう。でも、小さかった時「ナイスキャッチ」という言葉に込めた、感謝の気持ちだけはいつまでも変わらずに大きくなってほしい、と思った。

ぼくの言葉を聞いてくれてありがとう、と「ナイスキャッチ!」
ぼくの思いを受け止めてくれてありがとう、と「ナイスキャッチ!」