音取の世界(ねとりのせかい)



私は、「音取」が好きだ。現在では「玉串曲」といわれているが、今ひとつしっくりこない。私の中ではまだ「音取」なのである。
 「音を取る」と書くが、この音の取り先は、言うまでもなく相手の音である。笙の先導に始まり、龍笛と篳篥のかけ合いにいたるこの曲は、箏以外の楽人にとっては、非常に魅力のあるものとなっている。かちっとしたリズムがなく、それぞれの楽器の合図で進行するので、演奏する相手が変わると、なにかしら曲も変わって聞こえる。同じ曲でも、集まった人の組合わせの数だけ違った曲になってしまうという、不思議な曲だからである。
 龍笛と篳篥とのかけ合いにおいて、龍笛の奏者が見ている譜面は、龍笛のパートではなく、かけ合う篳篥のパートである。つまり、自分の楽器以外の旋律や息づかいを見聞きしながら、その中で自分の演奏を組み立てるのだ。言葉を変えれば、相手の呼吸の中で自らの呼吸を整えていくということであろうか。そして、他の奏者も同じように、私の呼吸に合わせて演奏しているのは言うまでもない。
 お互いに、相手の呼吸の中で、自らの呼吸を作りあげていく。私は、この曲を演奏するたびに、教祖の言われた「あいよかけよ」とは、このような世界ではないかと思う。
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 「権利と義務」あるいは「ギブアンドテイク」といったような言葉に象徴されるように、世の中は物事に境界線をつくり、ひと続きの事柄を、さも別のもののように切り分けてきた。人間関係においても、個人主義の名のもと、自分と他人との境界はきわやかで、それぞれが主張し、決して混ざろうとしない。お互いの呼吸が見えないし、また見ようともしていない社会であるような気がする。
 そうした社会を、誰もがよいとは思っていないのだが、相手の呼吸にしたがって、その身になって考え、行動していくこともなかなかできない。なぜなら、相手も自分の呼吸にあわせてくれているという、信頼関係が持てないからだ。
 音取の世界では、相手も自分の呼吸に合わせてくれると信じられることが、当たり前のこととしてある。したがって、相手の呼吸を感じ取れない初心者がその中に加わっても、他の人の働きで、それなりに調和した音楽となる。「私に合わせろ」とばかり、相手の息づかいを考えずに、「正しい」リズムと旋律を奏でたとしても、それは音取にはなり得ない。そもそも「正しい」というリズムや旋律がないのだから。
 社会も同じなのだろう。要は、誰が呼吸を合わすかである。自分から合わせにいくのか、それとも相手が合わせてくるのを待つのか、それを考えるのは、社会を構成する我々一人ひとりの問題である。
 音取の世界のように、お互いの呼吸の中に生き合うことが、我々の上に積み重なっているさまざまな境界を溶かし、すべてのものが調和し、混ざりあえる、「あいよかけよ」の世界を開くことにつながるのではないだろうか。

1996年1月(典楽会だより69号)