忘己利他(もうこりた)



 ある住宅地で、自宅横にあるゴミ収集場所の移動を求めて、周辺の住民を相手取っての訴訟がおこったことを本で読んだ。
 告訴した側の立場によると、「ゴミを指定日以外に出したり、きちんと梱包せずに出す人が多く、悪臭がひどい」とか「収集後の後始末をうちだけでしているのはおかしい」とかもっともなことである。反対に告訴された側の言い分も「以前から決まっていることを自分の都合で他に移そうとするのはおかしい」とか「話し合いですむ問題なのに告訴までしなくても」等よくわかるのである。
 事の良否を問うつもりはさらさらないが、何かがおかしい。以前は問題にならなかったものが、告訴の対象にまで膨らんでくるのはなぜであろう。
 単にゴミ置き場の移動という問題にとどまらず、そこには、良否を抜きにして現代人が培ってきた、自分にとっての益不益あるいは損得等をものさしとして生活せずにはおれない行動原理を見る思いがする。
 他人、他の物と自分との境界を際やかに見ることのできる時代になってきたようである。
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 金光四神様のご理解の伝えに、自分の子と他人の子がいっしょに転んだとき、どちらを先に助け起こすかという問答がある。四神様は、「他人の子を先に起こしなさい」という。問うた信者は「それではあまりにも我が子に対して情愛が薄いではありませんか」となお問う。四神様は答える。「いやそれで情愛が厚いのじゃ。その心になれば我が子は神様が起こしてくださる」・・・。
 この伝えは、このお道の精神を力強くお示し下さっていると言えよう。
 このお道における奉仕は、決して自らの犠牲あるいは辛抱の上に成り立つのではない。足らないところは神様が補って下さる。それを信じ、生活の場にあらわすところにあると四神様は言われたのだと思う。
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 「忘己利他」、天台宗の開祖最澄の言葉である。最澄は自著『山家学生式(さんげがくしょうしき)』のなかで「忘己利他慈悲極」と説き、これが大乗仏教の根本思想であり、釈迦が説いた仏教の原点だと考えた。
 「己を忘れ他を利するは慈悲の極みなり」金光教、仏教の違いを超えたところで、自分の利益・幸福を第一義として生きる我々にとっては、奇妙な新鮮さと清々しさとを与えてくれる言葉である。
 よりよく生きたい。幸せに生きたい。誰もがもつきわめて当然の願いである。ただ、その願いが自分だけなのか、自分とその家族なのか、それともみんないっしょになのか、ここに大きな違いが生まれる。
 自分本意な生き方が、世の中のくるいにつながっていることは事実であろう。これは言い換えれば、生き方を改めぬかぎり、幸せな環境、平和な社会は生まれないともいえる。
 己を忘れ他を利することは、前述したように決して自らの犠牲、辛抱を強制するのではない。神様の補いを信じて疑わない、極めて信仰的な生き方なのではないか。また、その中に身を置かぬかぎり、神の働きの実感は持てないであろう。
 典楽奉仕をもって、教会あるいは本部の御用の一端を担わせて頂く我々にとって、心にとどめておきたいことである。