もののいのち



子供は、物の扱い方が乱暴である。というよりも、慣れていないと言ったほうがいいのかもしれない。デリケートな機械などを持たそうものなら、それこそ大変である。汚す。噛む。落す。外れそうなものをとって、あげくのはてには分解してしまう。まあ、そうやって物の扱い方を覚えていくのではあろうが・・・・・。

「物を大切に扱いなさい。」と、私などはよく言う。この言葉のあとに「使えなくなるから」とか「もったいないから」とか、大人らしい理屈をつけるのではあるが、子供自身きっちりと納得がいかないらしい。ただ親が言うからということで、了承の返事はもらえる。こういうときの返事は決って「はい、はい。」である。

あるとき、「物がかわいそうだろう。」と言ってみた。こどもは、なにかしら考えていたようであるが、しばらくして「何でもいのちはあるのかな。」と問うてきた。私は「そうだよ。」と言った。そう言って、今度は私自身が考え込んでしまった。



華厳宗の僧侶明恵上人の歌に
「雲をい出て 我に照り添ふ冬の月 風や身に凍む 雪や冷たき」というものがある。
時は厳寒である。雲の合間から出てきた月に対して、風は身に堪えないか、雪は冷たくないかと語りかけている歌なのであろうが、この中から我々に訴えかけてくるものは「月のいのち」である。単なる石の塊としての月ではなく、作者と同じ息をしている同じいのちなのである。

いのちは、はたして生き物にしかないのであろうか。生物と単なる物とを切り分けて生きる現代よりも、明恵上人の時代が暖かく豊かに思えるのは、私一人ではないように思う。
物に「いのち」がないと考えるのは、もしかすると人間の高慢なのかも知れない。


物が氾濫している。人々の購買欲を刺激するためだけの道具であるがため、それらは容赦なく捨てられ、また作られる。そしてそれは、人間すらもそのサイクルの中に組み込まれ兼ねないご時勢である。
もののいのちは謙虚である。進んで自らを主張しようとしない。我々が見いだすことで、はじめて生まれるような気がする。

五十万円の笛も、プラスチックの笛も、いのちあるものとして見たとき、同様にかけがえのないものに変わるはずなのだ。いのちを見いだし認める、このことにより楽器は、我々の思いをしっかりと受け止め、応えてくれるにちがいない。

子供の話にもどるが、この会話の後、道路の真中でうつ伏せに寝ている我が子を知合いが見つけ、寝ている理由を聞いたところ、「地球が息をしているか耳をあてて聞いていた。」とのことである。
いやはや、子供のような純朴さも、併せて持ちたいものである。