金光大神流


「結果よければすべてよし」とよく言われるが、結果とともにそこに至るまでの過程にもこだわりを持つ人は多い。
私などは、冒頭の格言の口だが「ちょっと、そうじゃないよ。こうするんだよ。」と手順について言われることがよくある。そして「まあ、せっかく言われるのだから」と、言われる通りにしても「何が違うの?」と思うことがこれまた多い。

だいたい手順とは、より早くより合理的に結果を出すことができるよう工夫され創られていくものだろう。しかし、この「より早くより合理的に」という中身は結構くせ者のようだ。
人間は、誰もがいろいろな特徴や癖をもっている。器用な人もいれば不器用もいるし、人により得意なことも違う。故に手順などと言うものは、人により違って当然であり、あまり重要視せず「我流」でもよいという、冒頭の格言の通りになる。でも、よく考えなければならないのは、なぜ「より早くより合理的に」なのか、ということかもしれない。

 ある人の思い出である。物事の判断にあたって、よく人の話を聞き、その中から最適な道を見いだすことに秀でた人であった。当然、何をやるにしてもリーダー的な存在となっていた。
 一つの行事を実施するための相談をしていた時のこと、みんな思うところを述べ合い「ああすればいい、こうすればいい」と議論百出であった。みんなの意見を一通り聞いた後、その人は私の意見を「これが一番神様に対して実意だから」という理由で取り上げることを提案したのである。もちろん反対するものは誰もいなかった。
 私はこのとき、自分の意見が通ったことはもちろんだが、早さや合理的といった観点からではなく、神様に対して実意なあり方から物事を選択するその人と周りの人たちを通して、なぜか金光教の信仰の背中を見せられたような気がして、本当にうれしかった。
 もちろん「より早くより合理的」な生き方を否定することはできない。現代社会の大半が、この論理で動いていることは否めないだろう。しかし、こうした生き方で疾走してきた現代が、行き詰まりを迎えているという感触も一方である。だからこそ、「神様に対して実意な」生き方という言葉が新鮮に感じるのだろうか。

 我々は、上手になりたいがために稽古の励む。しかし、そのあり方は「より早くより合理的に」稽古を積むのではなく、「神様に対して一番実意な」稽古でありたい。そういう思いで稽古に励むとき、上達に至る経過、手順は「我流」ではなく、みな「金光大神流」なのだ。