稽古


およそ物事をひとつでも修得しようとするとき、そこには必ず練習あるいは稽古といったものがついてくる。そしてそれは、いつに変わらず単調なもので、これが耐えられずにあきらめた習い事を、誰でも一つ二つは持っているであろう。
 反復練習という。ひとつのかたちあるいは状態を、何回も何回も繰り返す。私に限らず、人間とは元来飽きっぽい動物らしく、また上達の気配がみられない。(一朝一夕になるものでもないが・・・)強烈な目的意識を持たぬ限り、まさに辛抱の二文字である。
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 なぜ、我々は稽古をするのだろう。「上手になり、良い楽のお供えができ、神様に喜んでもらいたい」といった答えになろうか。もっともなことである。
 しかし、はたしてそれだけであろうか。稽古とは、良い楽ができていくためのプロセスにしか過ぎないのだろうか。
 前教主金光様のお歌に
「繰り返す 稽古の中に 自ずから 生まれくるなり 新しきもの」
と詠まれたものがある。
 ひとつの目標を定めたとき、それに伴うプロセス(練習・稽古)には、前述したように「辛抱」がいる。ただ、それが苦になるかならないかの違いだけだと思う。
 しかし、前教主金光様は、繰り返す中に予想できないようななにか、「新しきもの」が生まれてくるのだと言われる。それは、たぶん目標とは無関係なところに生まれるに違いないだろう。
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 人は欲しいものを神に願う、のに対して、神様はその人の人生全般を見通して、時々に必要なものを与えてくださる。つまり、願った後に起こってくることは、すべて神様の計らいなのだ。そしてそれは願いに対する「答え」としてではなく、常に「新しきもの」として生まれてくる。人知で計り知れないものとして。何が生まれるのか分らない。そこに信仰の妙味、醍醐味がある。
 稽古もまた、同じなのだろう。本当に神様に願ってのものならば、上手になるだけではない。稽古によって、自分の予想もつかぬもの「新しきもの」が、自らの中にボコボコと生まれてくるにちがいない。
 一つ事へのこだわりによって、他の多くの豊かなものが生みだされていく。そしてその「新しきもの」は、こちらから求めたものではなく、神様から賜ったものなのだ。
 かくして稽古は、単なるプロセスとしてではなく、目標そのものとなるのである。
平成4年1月 典楽会だより