神の赤、神の竹


閑谷(しずたに)学校に行ってきた。岡山が誇る、日本最初の公立(藩立)による庶民のための学校で、現存する日本最古の学校建築として国宝に指定されているが、今回の目的は建物ではなく、その敷地内の紅葉であった。
もう20年以上前になるだろうか。11月の中旬に閑谷学校を訪れたことがある。その時の周囲の紅葉、とりわけ孔子を祀る「聖廟」の前に2本ある、楷(かい)の木の美しさが何の脈絡もなく急によみがえってきた。
元来、四季の移り変わりを愛で慈しむタチではない。ここ何年も「紅葉狩り」などという風流なことはしていないし、する気もなかった。むしろ、そんな余裕がなかったという方が正解なのだろう。それが、急に見たくてたまらなくなったのは、20年の空白を飛び越えて脳裏によみがえった楷の木の、息をのむような美しさだったのである。

楷の木は、そこに確かにあった。しかし、脳裏にイメージされた赤と黄色の鮮烈さはない。まあそうなのだろう。頭にあるのは「赤と黄」で切り抜かれたまさに紅葉のイメージなのである。実際に見る紅葉は、自然の中にどっかりと腰を落ち着けていた。常緑樹を含めた山々の褐色になる木々、赤になる木々、黄色になる木々とともに。

紅葉とは、本当に不思議だ。緑の葉たちが、自らを木から切り離す前に、赤や黄色の鮮やかさを短い間ではあるが身にまとう。聞くところによると、落葉の時期になると幹から水分の供給が止められ、緑の色素であるクロロフィルがなくなることにより、黄色のカロチノイドという色素が表面に出てくることになり、黄色に変化するという。また」葉に残る光合成による作られた糖分から、アントシアンという色素が合成されることによって赤くなるという。なぜ赤であり黄色であるのか。それは誰にもわからない。科学は、そのメカニズムを解明したが、なぜその色でなければならないかには、たぶん答えられないだろう。紅葉は、まさに神様からの贈り物なのである。

世界の熱帯から温帯さらには寒冷地まで幅広く、竹やササといった丸くて中が中空でまっすぐ伸びる植物が分布している。なぜ、丸くて中が中空でまっすぐ伸びるのか、答えは紅葉と一緒なのだろう。
2000年以上前から、その竹を使って笛が作られた。そしてこんにちまで受け継がれ、我々の前に届けられている。
そのような神の賜物である竹を楽器に、音を奏でるという営みは、人に聞かせるためだけでなく、ひょっとすると、賜ったものに対する、幾ばくかの感謝の意味も込めているのかもしれない。