人生の午後


 ふと街中で流れてきた音楽・・・。尾崎豊の「15の夜」である。
妙に懐かしくて、気になって気になって、早速うちに帰ると昔のCDをひっくり返してさがしてみた。あった、あった。「17歳の地図」というアルバムに入っていた。

このアルバムが発売されたのは、1983年。尾崎がまだ高校生の時である。ちなみに教祖100年祭の年であり、私が結婚した年でもある。そんな私が、当時のティーンエイジを代表する尾崎のCDを買ったのは、だいぶ後になってから。そう、尾崎の急逝(1992年)が報道されてからのことだった。
 あの追悼集会の折の、異常とも言える大勢のファンの集まり(4万人が集まったそうだ)が映像で流された。彼の歌とはいったいどのようなものなのか興味をもったのがはじめであった。
 その後、少ししてからある学者の尾崎豊に関する講演を編集する機会があったこともあり、いつしか彼の主要なアルバムは手元にある、といった状況にまでなった。その頃は、いっぱしの尾崎フリークであった。
 尾崎豊の曲は、自分探しの途上の苛立ちと、若者としての大人への反抗というイメージで語られることが多いのだが、それとともにその渦中での自らの存在が不確かであることの不安や動揺、おびえといった感情を、素直に正直に歌い上げたところにある。それが、あれだけの若者の共感を呼んだのではないかと思っている。そんなことを感じながら、当時は聴いていたのである。

 それから14、5年経ったろうか。CDから流れる音楽は、思春期のただ中にある少年の自分探しとも言える曲である。「校舎の裏 煙草をふかして」とか「家出の計画をたてる」とか「盗んだバイクで走り出す」とか、オイオイと言いたくなるような歌詞が美しすぎるメロディを纏って、私の耳に届けられる。本当にきれいな曲なのだ。それだけではない。その中に尾崎の無垢で純粋な魂を見せられる思いがするのである。
 ただ以前に聴いた時にくらべて印象が違っていたのは、「美しい」という表現の中身であった。かつて「美しい」と感じた曲は、今では「まぶしいくらいに美しい」と感じるのだ。
 この違いは何なのか、すぐに思い当たった。要するにオジサンになったのである。「15の夜」の世界は、たぶん永遠に15歳なのだろう。作られたもの、出遭った事柄そのものは、その時点で時を止めるのである。かたや1年1年歳を重ねていく私との差は開くばかりである。
 人間は成長する。その中でさまざまなことを学んでいく。成長する中で、我慢することを学び、妥協することを学び、また折り合いをつけることを学ぶ。しかし、「15の夜」で描かれた大人への反抗という世界は、大なり小なり誰もが経験したことであろう。それが歳を重ねていく毎に、なつかしさやまぶしさの度が増す。未熟ではあっても、無垢で純粋な魂の自分がかつていた。そこへたどり着く、時間への逆行がまぶしいのである。

人の一生を一日に置き換えると、自分は今どのあたりにいるのだろうか。定かではないが、人生の午後にいることは間違いない。だが、オジサンになった今でも、振り返れば時を止めたさまざまな過去の事柄が、まぶしく、かつほろ苦く思い出されるのだ。
 自分の笛を持った時の感動。はじめて綺麗な音色が出た時の喜び。奏楽本番で音頭がかすれた時の動揺。楽にかぎらず、人生の過去そこかしこに、思い起こされる事柄が誰にもあるものだ。そして、それらは一様に未熟で頼りない。だからこそ懐かしいのだろう。
 だが待てよ。今は未熟と感じてはいるが、その当時はどうだっただろうか。たぶん一生懸命だったよなあ。決して未熟な思いは無かった。それが、何年か経って、その当時が未熟に思えるのは、その分、自分が成長したからなのだろうか。
 自分は今どこにいるのか、どこに向かおうとしているのか。人生の午後にいるとは言え、何かに向かって歩いていることはまちがいない。だが、時には振り返って、まぶしい未熟な自分を思い出してみる。そんな寄り道があってもいい。
 
2006.6.27