人一己百(じんいつきひゃく)



十人十色とはよく言ったものである。世の中、一人として同じ人間がいないのと同じように、それぞれが持っている才能や可能性も千差万別である。
 典楽会という、一つの方向性をもち、志を同じくする人々の集まりも例外ではない。それこそ十人十色の人々が、様々な思いを内に秘め、一様でない技量をもって、その指で、その声で、ひとつの音楽を創りあげていくのである。
 生まれつき器用で、何でも比較的短期間のうちに修得してしまう人がいる。反対に、全くの不器用で、周りが首をかしげるくらい覚えの悪い人もいる。同じ人間でありながら、なぜ神様はこのようなハンディキャップをお与え下さったのか、と不器用な部類に属する私めは、ことあるごとに思うのである。
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 才能は、自ら望んで備わったものではなく、天から与えられたもの、言わば神様からの贈り物である。とすると、そこに私というこの世に一人の存在にかけられた神様の願いをみることができるのではないか。ならば、「ハンデよりは才能を」と願うのは人の常ではある。
 でもよく考えてみよう。不器用ではあるが、それを克服しようとする努力あるいは忍耐というものを贈られてはいないかと・・・。
 「人一己百」(じんいつきひゃく)、中国の書『中庸』の言葉である。他人が一度でできることは、自分は百度やっても、必ずしあげてみせる、という意味であろうか。たとえ能力では劣っていても、努力と忍耐で、能力のある人間と同じ結果を得ることはできる。また、その力を与えて頂いているのである。
 人一人に与えられた才能と、背負ったハンデ。どれも神様からの贈り物である。その中に込められた神様の願いを、よく考えねばならない。
 自分に与えられたものを他人と較べ、優越感に浸ったり劣等感に苛まれることは、無意味であるばかりか、大きなご無礼になってしまうことを、肝に銘じておきたい。