一期一会(いちごいちえ)


本部広前祭場・・・。ほの暗い階段を上り、楽人控え室に向かう。それにつれて、耳に入ってくる習礼前の稽古の音も、だんだん大きくなってくる。ドアを開けると、一段と大きくなった音とともに、痛いほどの緊張感が私の中に飛び込んできた。しかし、それがまた心地よくもある。大祭前の楽人控え室は、いつも引き絞った琴糸のような緊張感と熱意が漲っている。
この心地好い、不思議な雰囲気は、いったいどこから生まれるのだろうか。
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そもそも皆、それぞれが今日の大祭を迎え、奉仕するために、稽古してきた人たちばかりである。そして、それだけではない。一人ひとりが、各支部の推薦と願いを受け、また教主金光様の祈りの中で、集った人達でもある。言葉を換えれば、決して、自分だけの技量と熱意のみで集まれたわけではないということであろうか。
そのような中で集った面々である。心を合わせて、より良い奏楽をめざすことはもちろんだが、その出会いそのものも、神様のお計らいとして大切にしたいものである。
「一期一会」。これは、茶の湯の心を表す言葉である。
幕末の大老井伊直弼は、著書の中で「そもそも茶湯の交会は一期一会といひて、たとえば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり、去るにより、主人は万事に心を配り、いささかも粗末なきやう〔中略〕実意を以て交わるべきなり、是を一期一会といふ」と記している。
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奏した楽は、ふたたび同じ人が集まっても二度と同じものを奏すことはできない。その意味で奏楽は、出来不出来にかかわらず、まさにその時しかできない、我一世一度のかけがえのない音楽である。ましてや、各支部の願いを受けた者が集ってのものである。
一期一会の心は、奏楽の心に通じるようだ。
神様が設定していただいた出会いを、一生一度のこととして素直に大切に受け、その中に自分なりの最高の心を込めさせていきたいものである。それを抜きにして、御用としてのより良い奏楽、最高の奏楽は成り立たないのではないのだろうか。
平成2年7月 典楽会だより