母の祈り

尋ねてきたその方は、80に近いおばあさんであった。
息子さんが学生の折に、典楽会の試験を受けて合格し、しばらく奏楽の御用にあたっていたが、就職とともに仕事の多忙さゆえに御用からしだいに遠ざかることとなり、休会の手続きをしたという。年齢を重ねるとともに仕事はさらに多忙となり、御用に復帰できる見通しはまったくないのだが、それでもせっかく合格したのだからと、退会の手続きはとらず、おばあさんは息子さんに内緒で、会員の会費をこんにちまで支払いつづけてきたというのである。

 その間、子どもたちはみな家庭を持ち、夫にも先立たれることとなり、自ら年金暮らしとなった。そして現在、息子の一人にかけてきた、楽の御用に再び立ってもらいたいとの願いを、そろそろ精算した方がいいのかどうか。そのことを、私に問いかけてきた。
 いろいろ話を聞かせてもらうと、思いがけない言葉が返ってきた。
「おばあちゃん、よくここまで御用してくださったね。」
「いやいや、息子が楽の御用に戻れないということは、もうだいぶ前からわかっていたの。でも、たとえ短い間でも、お世話になった典楽会に感謝させていただく思いもあって・・・・」
いつしかこのおばあさんの願いは、息子に対しての願いを超え、関わりを得ていた典楽会の上にも広げられていた。典楽会は、このおばあさんに願われ、祈られていたのである。

典楽会に限らず、その息子さんさらにはその兄弟を取り巻く、たくさんの関わりある方々に対して、感謝と願いのまなざしをおばあさんは向けていたのではないか。
そこには、一人暮らしのさびしい生活といいたイメージとは無縁な生き方が垣間見えた。
ある人は、一方通行と言うかも知れない。しかし、人すべてを見守り、全ての立ちゆきを願う大いなる存在の前では、それは違うのだ。

おばあさんの願い、祈りは、息子や家族を超え、その取り巻きを超えて、さらに水面の波紋のように限りなく広がっていくのだろうか。私の祈りも、おばあさんに届くようにと祈ろう。
人は祈り、祈られている。そのような実感が常に持てたら、どんなに豊かな心になれるのだろう。
素敵な生き方を教えてもらった。