我 流


 最近、楽の稽古も、合奏の機会も少なく、自分一人で祭典での奏楽奉仕をすることが多かったために、いつの間にか我流になっていたのだろう。先日、合奏のけいこをしたのだが、なかなかうまくみんなと合わせることができなかった。それまで自分ではうまく吹けていると思っていたのに、合奏となるとみんなで一つの曲にしなければならない。演奏者同士が心を揃え、心を一つにして演奏しなければならないのだ。
 それぞれが自分勝手に演奏して、音がバラバラになった時の違和感。ところが逆に、合奏で音が揃った時の、何とも言えない安心感というか爽快感。これは、素人でさえもわかるものである。
信心も同じで、いつの間にか我流の信心になってはいないだろうか。今一度、自分の信心を見つめ直してみようと思った。
我流にならないためには稽古が必要で、稽古をするためには、手本が必要である。楽にも、信心にも必ず手本があるはずである。この手本に似るように努力することが必要だと思う。
 簡単なようで、これがなかなか難しい。手本に似るようにということは、自分のやりたいようにするのではなく、自分を出さないということでもある。我を出さず、己を捨ててこそ、手本に似たものになるのだと思う。
 楽も信心も同じであるが、年月の長短に関わらず、我流になっていないか、見つめ直してみるのもよいのではないだろうか。(M2)