音律を考える@

「下無」のささやき

2021/6/1 
 典楽を修得する上では、実際にやってみることが欠かせない。というか実際にやること以外に道はない。たとえ頭で理解し演奏のコツをつかむことができたとしても、それは頭の中の世界のことであり、実際の場では役に立たないし、当然、儀式時の演奏もできないのは言うまでもない。修得への近道はない。地道に稽古の繰り返しだけなのである。と、まあ当たり前のことを述べてきたが、ただ全くの無意味かというと、どうもそうではない。頭で考える典楽=思考する典楽は、実際に行ってきた稽古に深みと広がりを付与するのではないかと思うからである。
 これが「アカデミっく典楽」を論じる所以でもある。
 さて、今回からは典楽の音律について考えてみたい。
 
 今回、音律を考えるきっかけとして、鎌倉時代末期、吉田兼好によって書かれたと言われている随筆「徒然草」の第二百十九段を取り上げてみたい。
この段では、龍笛の音孔「五」=下無、について、他者からの聞いた話として載せられている。そして最後には龍笛の音孔「五」の吹き方を世情や人との関わりに重ね合わせて、さりげなく評するという、さすがの吉田兼好節となっている。
 典楽会内でも、龍笛の「五」の吹き方については、音律が「低い」とか「高い」とか音色が「強い」とか「弱い」とか結構喧しい。そして、これは龍笛の「五」の吹き方にとどまらず、その音律「下無」の問題にも広がる。往々にして会内では、「五」の音律が低いと言われる方が多いように思われる。
 なぜ「五」は低くなるのか。なぜ「下無」は取りにくいのか。個人的な考察であるが、始めてみたい。
 それではまず、「徒然草」第二百十九段の本文と現代語訳を見てみよう。 

徒然草 第二百十九段
四條黄門(中納言四條隆資・ふじわらのたかすけ・鎌倉時代末期の貴族、黄門は中納言の唐名)命ぜられて曰く、「龍秋(楽人豊原竜秋・とよはらのたつあき、笙の名手)は道にとりてはやんごとなき者なり。先日来りて曰く、『短慮の至り(浅はかな考えの至り、謙遜した言い方)、極めて荒涼(こうりょう・きわめて無作法)の事なれども、横笛の「五」の穴は、聊(いささ)か訝(いぶ)かしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。そのゆゑは、「干(かん)」の穴、「五」の穴は下無調(しもむちょう)なり。その間に勝絶調(しょうぜつちょう)をへだてたり。「上)」の穴雙調(そうじょうちょう)、次に鳧鐘調(ふしょうちょう)をおきて、「夕(しゃく)」の穴黄鐘調(おうしきちょう)なり。その次に鸞鏡調(らんけいちょう)をおきて、「中」の穴盤渉調(ばんしきちょう)、「中」と「六」との間(あはひ)に神仙調あり。かやうに間々にみな一律をぬすめるに、「五」の穴のみ「上」の間に調子をもたずして、しかも間をくばる事ひとしきゆえに、その聲不快なり。さればこの穴を吹くときは、かならずのく。のけあへぬときは物にあはず。吹き得る人難し。』と申しき。料簡(りょうけん)のいたり、まことに興あり。先達後生を恐るといふ事、この事なり。」と侍りき。他日に景茂(かげもち・大神景茂おおがのかげもち・鎌倉時代末期の楽人)が申し侍りしは、「笙は調べおほせてもちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛はふきながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴ごとに口傳の上に、性骨(せいこつ・天性得た骨)を加へて心を入るゝ事、五の穴のみにかぎらず。偏にのくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も快からず。上手はいづれをも吹きあはす。呂律(調子)のものにかなはざるは、人の咎なり、器(うつはもの)の失にあらず。」と申しき。
『校註日本文學大系3』より

<<現代語訳>>
藤原隆資がおっしゃった。
「豊原竜秋は、雅楽のエキスパートだが、先日、彼がやって来てこんなことを言っていた。
『浅はかな考えで言うのも憚られるのですが、横笛の「五」の穴に関して密かにいささか疑問に感じていることがございます。
どういうことかと言いますと、横笛の「干」の穴は平調(ひょうじょう・西洋音楽の音名ではEにあたる))で、「五」の穴は下無(西洋音楽の音名ではF♯)です。
その間に、勝絶(しょうぜつ・西洋音楽の音名ではF)を隔てております。
「五」の穴の隣の「上」の穴が双調(そうじょう・西洋音楽の音名ではG)、そして鳧鐘(ふしょう・西洋音楽の音名ではG♯)を隔てて、「夕」の穴は黄鐘(おうしき・西洋音楽の音名ではA)となります。
その次に鸞鏡(らんけい・西洋音楽の音名ではA♯)を隔てて、「中」の穴が盤渉(ばんしき・西洋音楽の音名ではB)。「中」の穴と「六」の穴との間には、神仙(しんせん・西洋音楽の音名ではC)があります。
このように笛はそれぞれの穴と穴の間に半音違いの音を持っていますが、「五」の穴だけが「上」の穴との間に半音違いの音がありません。それなのに穴は他の穴と同じ間隔で並んでいるのですよ。従って「五」の穴から出る音は不快な音になってしまいます。
そんな理由があるので、「五」の穴を吹く時には、必ず口を穴から遠ざけて吹きます。そうしないと他の楽器の音と調和しないのです。「五」の穴を見事に吹きこなす人はなかなか居ませんね』
この豊原竜秋の意見はとても思慮深くて、興味を引かれる。その道の名人が後輩を畏れるというのは、まさにこの事だ」とのことであった。

後日、大神景茂がこの話を受けて、次のように述べた。
「笙の笛は調律を済ませてあるものを吹くだけで音が出るのだから、ただ吹けばそれでよい。しかし横笛は、吹きながら調律を合わせて奏でるものなのだ。だから穴ごとの吹き方に口伝の教えがあるだけではなく、その人の素質を加味して、勘で吹かなければならない。おまけに勘を働かさねばならないのは「五」の穴に限った話ではない。ただ単に口を穴から遠ざけて吹けば良いということではないのである。
間違った吹き方をすれば、どの穴からも良くない音がするし、上手な名人はどの音でも吹いて合わせることができる。他の楽器の音と調和しない音を出すのは、あくまでも吹く人の責任であり、楽器には何の問題もないのだ」
とのことである。

 要約すると、「五」の音が他の音孔と異なっているのは、七つの音孔間それぞれに半音の音律を隠しているのに対し、「五」から「上」の間には半音が存在しない。それなのに外見上は他の音孔と同じように同じ間隔で並んでいる。故に「五」の音が不快に聞こえてしまう。ということだろうか。
 確かに不思議と言えば不思議なことだ。音程は管の長さに比例するので、その音程分は音孔間隔が短くなるはずなのだが、外見上はそうなっていない。
 
 <次回に続く>