アカデミっく典楽

日本音楽の源流から −中正楽の場合 その1−
典楽という音楽の双璧は、言うまでもなく中正楽と吉備楽だが、それぞれの音楽がどのような系譜を辿って基盤を整え成立し、こんにちに受け継がれてきているのかをてきたのかを話題にすることはほとんどない。
中正楽の場合、そのベースが雅楽にあるということは、ほとんどの楽人にとり常識となっている。しかし、そもそも雅楽という音楽がいかなるものであるのか、雅楽が日本の文化背景の中でいかなる変遷をたどってきたのか、そして明治文化の一つとして中正楽の基盤となるに至ったのかを探ることは、中正楽という音楽が、実は抱え込んでいる歴史的思想的な厚みを感じられるようで、かなり興味深い。
そこで、今回は中正楽の基盤となる雅楽の歴史的な変遷を押さえつつ、その中に流れてきた音楽的思想や文化背景をたどってみたい。

1.日本音楽の曙
雅楽は、5世紀から8世紀頃に大陸の音楽として朝鮮半島を経由し、日本に伝わったと言われている。
それまでの日本に存在した音楽は、神楽など歌謡を中心としたものでありいくつか楽器も作られてはいたが、それらは歌謡の伴奏に使用するためのもので、純然たる器楽曲は成立していなかった。はじめて大陸の器楽音楽を聴いたときの日本人の驚きはいかばかりであったか。おそらく空前絶後の出来事であったに違いない。
また、大和王権による連合国家の体裁を整えはじめる時期に重なって、文化的に遅れをとっていた日本は、音楽のみならず積極的に大陸の文化を導入しはじめる。医療、建築、文学、宗教、国家制度、ETC。大和王権の時代から奈良朝、平安朝初期に至る時期は、大陸文化の導入時代といっても過言ではない。

ここで留意しておきたいのは、これらの導入は個人の趣味嗜好からの動きではなく、国家としての明確な意図の元に行われたということだ。例えば国の根幹である統治システムをとっても律令制度をはじめ様々なものが導入された。受け入れなかったのは科挙(中国の高級官僚登用試験制度)と宦官(去勢された男性による役人登用制度)のみであったという。この国のかたちをつくっていくという貪欲な気概が充ちていた時代であった。
 大陸の音楽は朝鮮半島を経由して、まず三韓楽(伎楽、高麗楽など)が渡来人等により伝来し、少し遅れて遣隋使や遣唐使の手により中国音楽(唐楽、林邑楽や声明など)が持ち帰られた。それらとともに、各音楽で取り扱う新たな楽器が輸入されたのは言うまでもない。

 現在、日本で言われる雅楽の中心をなすのはこの唐楽であるが、中国雅楽とは別物であることに注意したい。中国における雅楽は、天神地祇、皇帝の先祖や孔子などの祭祀の中で演奏する宗教音楽のことであり、日本が持ち帰ったのは、雅正の楽である雅楽に対して俗楽と言われる宮廷の饗宴音楽の「燕楽」と言われるものであった。それでも、かつて聞いたこともない大編成かつ壮麗な器楽はまさに日本人にとっては「雅楽」であったのだろう。まさに欽明天皇が初めて百済からもたらされた金銅製の仏像をみた時の驚きだ。「異国の神はキラギラ(光り輝いている)し・・・・。」そのようなことから、中国の雅楽と日本の雅楽は名前は同じでも別の音楽となったという。
 そしてもう一つ大切なことがある。音楽には、その形を支える基盤というか思想というか精神性が必ずついてきたり、あとから生まれてくるものだが、この時期に導入した大陸の音楽は、たいてい儒教の影響を色濃く受けていた。日本に入ってきた雅楽という名の燕楽も例外ではない。

 儒教は、紀元前の中国で孔子が創始した宗教であり思想であり、体系化された哲学である。中国では漢の時代に国家の学問思想として認定されるなど、以後2000年以上にわたり歴代朝廷の支持を得、政治権力と一体となって中国の社会・文化の中心であった。また漢字文化圏とよばれる日本、朝鮮半島、東南アジア諸地域にも伝わり、大きな影響を与えている。 ただ日本は、儒教を宗教としてではなく思想学問として輸入した。当時日本には神道という太古の昔から根付いている宗教があったからだ。儒教の思想と共に、大陸の音楽は日本に導入されたのである。(余談ながら仏教の導入時も、朝廷の権力を二分する大騒動になった)

2.儒教と礼楽
 儒教の特色は「徳治主義(徳をもって政治を司る)」と「修己治人(しゅうこちじん)」(己(おのれ)を修めて人を治める)」であり、その理想とするところは倫理と政治との一体化であった。多分に政治的なイデオロギーを持つがゆえ、各時代の中国統治者は、あらゆる分野に儒教を利用した。音楽を含め芸術全般も例外ではない。それが「礼楽」といわれる思想である。
 礼楽は、礼をもって行いを戒め,楽をもって心をやわらげるというのが基本の考え方で,知識人の教養としての六芸 (礼、楽、射、御、書、数) の中の二つに数えられるなど中国の芸術観の根本ともいえる。
 礼楽の思想について、日本音楽研究の大家の一人である吉川英史氏によれば
「音楽は単なる個人の娯楽ではなく、その本質として持っている調和の感化によって、人間社会の調和に役立て、国家統治の手段にするという考えが、礼楽思想の根本である。礼は差別と秩序のために、楽は調和と融合のために必要なのである。そのような音楽であるから、雅正の楽が求められ、淫楽が排斥される。その結果、鎮静的な音楽、秩序正しい音楽、厳粛で優雅な音楽を理想とするようになる。(吉川英史著 『日本音楽の歴史』)
と述べられている。

 こんにち、音楽といえば西洋音楽であり、子供のころから学校で教育されるのも西洋音楽、巷に流れているのも西洋音楽。日本でありながら真の意味での日本音楽を聴く機会はほぼないと言っていい。そんな環境で生きている人間にとって、「音楽は単なる個人の娯楽ではなく」とか「人間社会の調和に役立て」とか上記の引用文は違和感の塊のように感じられる。ちなみに「淫楽」とは、淫らな音楽ということではなく、技巧に走りすぎたり、テンポが速く変化が激しいもの、いたずらに感情に訴えるようなものをそう呼んだという。
 もう一つ、同じく吉川英史氏の著作から、中国の周から漢にかけて儒学者らが編纂した『礼記』の中の『楽記』からの一文を吉川氏が意訳したものである。少々長くなるが引用する。
古楽は奇をねらったり、人の意表に出ることをしない。調和と中正と平静とを尊ぶのである。諸々の管弦楽器の速度を調整して合奏を正しく導くところの役をなすための特殊な楽器を用いるし、奏楽の始めと終わりにはその合図のための楽器を用いてあらかじめ人に知らせるから、聴く人の意表に出るということがない。古楽はこのように平静にして悠々迫らざるものがある。それ故に道を尊ぶところの君子はこの古楽を楽しみ、古楽によって身を修めたのである。即ち古楽は単に官能を満足せしめるところの聴覚芸術ではなく、身を修め、家に及ぼし国家に奉仕するところの一つの精神修養の基礎をなすものである。
しかるに新楽(即ち鄭衛の俗楽)は、その音楽も舞踏も、感官的であり、魅惑的であり、はなはだしきに至っては淫猥で聴衆と演者との間の縄張りも取り除かれ、あらゆる意味で無秩序状態が展開される。そしてその感覚的刹那的な音楽の故に演奏後はほとんど印象らしいものは残らない。これが新楽の本質である。なるほど音楽は音響現象の一つである。しかし、単なる音響現象と君子の持つ真の音楽とは異なるのである(吉川英史著 『日本音楽の特色』)
雅正の音楽(雅楽)である「古楽」と俗楽の「新楽」の対比からの文であるが、冒頭の「古楽は奇をねらったり、人の意表に出ることをしない。調和と中正と平静とを尊ぶのである。」との主張は、真に興味深い。なぜならば、我々が幼い頃から慣れ親しんできた音楽とは、全く異なるものだからだ。

我々がなじんだ音楽は、わかりやすくなじみやすいメロディ、決して一辺倒にならず変化するリズム、意表をついて出される意外な和声、曲の抑揚もピアニシモからフォルテシモまで大きく変化する。こうした音楽は、総じて人の意表をついてメロディの変化や音の抑揚で魂を揺すぶり、人の奇ををねらってリズムや和声の変化を用意していて音楽的な興奮と感動を呼び起こす。この時代の人々に、例えばXjapanの「紅」やベートーベンの「運命」、チャイコフスキーのピアノ協奏曲などを聴かせたらどうなるだろうか。たぶん卒倒するだろう。そして口をそろえて言うだろう、「何たる淫楽であろうか」
こうして見てくると、この時期に導入された音楽は、こんにちの我々が当たり前と思っている音楽とは対極にあるような音楽、あるいは、音楽の範疇に入らない音楽であったことがわかる。当然、淫楽と呼ばれる音楽も持ち込まれたのだろうが、当時の国家方策や宮廷、有力豪族の統治にふさわしいものが保護され推奨されることになる。
 このようにして、大陸から持ち込まれた音楽は、雅正のものを「雅楽」として、さまざまな国家行事の場で演奏されることになり、宮廷を中心にして浸透していくことになる。 (つづく)